天目釉蓋付水注
  • 年代

    高麗

  • 材料

    陶磁器 - 黒釉

  • 寸法

    高23、胴直径14.7

  • 番号

    本館 1997

黒釉は二酸化鉄、及び少量のマンガン、コバルト、銅などの二酸化着色材料によって色を出したものである。黒釉磁器の出現は東漢中晩期で、最も成功したのは浙江省の徳清窯である。
北方黒釉のはじまりは、南方よりも300年遅れをとった。北方の最も早い時期の黒釉は、河北贊皇県、東魏時代の李希宗墓から出土した黒釉磁器である。唐代、北方の黒釉の生産は普遍的で、最も有名なものは陝西銅川黄堡窯から出土した黒釉塔式蓋罐である。
唐代中期には、山西の渾源窯から外面は黒釉で、内面は白釉を施した黒釉椀が制作された。宋金代の黒釉は生産量が多く、南方地区では建窯、吉州窯などで焼かれ、北方地区では河南、河北、山東の地で焼かれた。黒釉は、明‧清代にも変わらぬ寵愛を受けた。
この遺物は河南地域から出土したもので、学会では“河南天目”と呼んでいる。蓋と一組をなす細長い頸、平たい胴が見る者に安定感を与える形態の水注である。突出した白色縦線が腹部全体に均等に廻らされている。
二つの彫刻刀で胴を縦方向に両側を押し、中央に線が浮き立つようにした後、その上に全体的に黒釉を施し、浮き立たせた横線部に白い釉薬を施した。
畳付は釉薬を拭っている。口部は蓋が外れないように十字形に彫ってある。