慶州路西里215番地から出土した金製頸飾 : 金 昡 希

 慶州路西里215番地古墳から出土した金製頸飾、新羅6世紀、長さ30.3㎝、宝物第456号

慶州路西里215番地古墳から出土した金製頸飾、新羅6世紀、長さ30.3㎝、宝物第456号

まぶしいという言葉では足りないこの金製頸飾は、小さな金環をつなげて1個の金珠にしてその間に数多くの金製瓔珞をつけました。そして、大きな翡翠製曲玉1点を胸の中央につけていました。この名品頸飾は新羅古墳から発見された金製頸飾の中で最も美しいものです。

名品金製頸飾が出土した路西里215番地古墳は4〜6世紀における新羅の最上流層の古墳が集まっている慶州中心地の大陵苑近くに位置し、「壺杅」銘青銅盒が出土した有名な壺杅塚(140号)の西南側護石と重複しています。

名品は偶然発見されることもある

この金製頸飾は偶然発見されました。1933年4月3日、慶州邑路西里215番地で金德彦という人がカボチャの種を蒔こうと土地を耕したところ、曲玉4点、管玉1点、金製指輪1点、金製耳飾1点、銀製腕輪1組、金製珠33点を発見し、慶州警察署に届けました。当時、朝鮮古蹟研究会の助手であった有光教一が朝鮮総督府に派遣され慶州警察署で申告された遺物を調査してみると、耳飾や指輪などがセットではない点をいぶかしく思い雨が降る中、遺物が発見された場所を訪れました。遺物が発見された場所は申告者である金德彦の家でその周辺には金冠塚と瑞鳳塚が位置する路東里・路西里古墳の端であった壺杅塚と非常に近い位置であったため、有光は4月12日から19日まで緊急調査を実施しました。

緊急調査は有光が所属していた朝鮮総督府傘下の朝鮮古蹟研究会が行い、積石を露出したところ壺と蓋杯、把手附壺が確認されました。続いて木槨の床面と推定される地点で金製耳飾1点と金製珠、曲玉と管玉が出土し、40㎝ほど離れた地点から金製腕輪1組と銀製腕輪1組だけでなく、腕輪の周辺から複数点の金製指輪と銀製指輪も重ねられた状態で確認されました。これらのアクセサリーは死者の体を直接飾るものであるため、その出土位置や状態から見て死者の頭の向きは東向きだったことが分かります。

約8日間の短い調査ではありましたが、その結果、警察署に保管されていた耳飾とセットをなすと思われる耳飾1組をはじめ、金製珠44点、曲玉、管玉、丸玉などの玉類33点、金銀製の腕輪と指輪、数点の新羅土器が確認されました。しかし、これらの遺物は調査の後、一部はソウルに置き、一部は東京に持って行かれ散在することになりました。

1 慶州路西里215番地の発掘調査(1933年撮影)
2 古墳の内部を検出する様子
最も華麗な頸飾はどのような形か?

新羅の頸飾に玉で作られた珠類が多く見られますが、金・水晶・硬玉・瑪瑙などで作られたものもあります。慶州路西里215番地古墳で発見された金製頸飾は刻み目を施した細い金環を上下対称にそれぞれ6個ずつつなげて1個の珠の形に作り、この金製珠に木葉形の瓔珞を5個ずつ付けました。これらの瓔珞はさらに華麗に魅せるために瓔珞の端を内側に巻いて刻み目を施しました。
これと同様の形態の金製頸飾はあります。太環耳飾の中心環を作る方法と類似していますが、半円状に作った薄い金板2枚をくっつけて、その端に金製瓔珞をつけたものです。このように作られた金製頸飾は慶州皇南大塚北墳と梁山金鳥塚、昌寧桂城A地区1号墳から出土しています。

金製頸飾の細部 [左:慶州路西里215番地、右:慶州皇南大塚北墳] 金製頸飾の細部 [左:慶州路西里215番地、右:慶州皇南大塚北墳]

金製頸飾だけでなく.....

慶州路西里215番地出土金製腕輪、宝物第454号

慶州路西里215番地出土金製腕輪、宝物第454号

古墳からは金製頸飾のほか、太環耳飾、金銀製腕輪、指輪、壺と蓋杯なども発見されました。指輪は表面に刻み目を施し、金製腕輪は刻み目で龍文を表現しました。一方、銀製腕輪には何の装飾も施されていませんでした。

古墳の中から確実に確認されたのは金銀製の装飾品だけであり、木槨の積石部東南端部分から大型壺が1点発見されました。その壺の内部にはカキ、ハマグリ、タニシ、サザエ、アワビなどの貝殻類や魚の骨、鳥の骨がありました。貝殻類と動物の骨の下には、さらに蓋杯類50点余りが入れられていました。路西里215番地の緊急調査時に発見されたこの大きな壺を収拾し周辺を調査した結果、4〜5段に積み上げた石積みが確認されましたが、その後1946年の壺杅塚の発掘でこの石積みは壺杅塚(140号墳)の護石であることが明らかになりました。つまり、壺杅塚の護石が路西里215番地古墳の積石を破壊した後に重複して築かれた状態だったのです。したがって、路西里215番地を緊急調査した際に確認された大壺はおそらく路西里古墳のものではなく、壺杅塚の護石に関連する祭儀用土器ではないかと思われます。

このような現象は皇南大塚の墳丘で確認された大壺の中に入れられていた高杯、鳥の骨、貝殻類の存在や、近年再発掘調査された瑞鳳塚では護石の外側に大壺を置き、その中に正方形をなす蓋杯や壺を入れた後、カキなどの貝殻類を大量に入れた事例もあり、壺杅塚の護石との関連性が考えられます。

路西里215番地での大壺出土状態、慶州瑞鳳塚護石での大壺検出状態 路西里215番地での大壺出土状態、慶州瑞鳳塚護石での大壺検出状態

慶州路西里215番地古墳と壺杅塚・銀鈴塚との関係は?

慶州路西里215番地配置

慶州路西里215番地配置

路西里215番地古墳と壺杅塚・銀鈴塚という3基の古墳が続けて築造されました。これらの古墳はその形によって築造の前後関係が分かります。まず、壺杅塚と銀鈴塚は皇南大塚のように2基の古墳をつなげて作られた瓢形墳であり、銀鈴塚が作られた後に壺杅塚が築かれました。そうなると、この2基の古墳と路西里215番地古墳の前後関係が重要になります。護石の重複関係を見ると、路西里215番地古墳の積石の上部に壺杅塚の護石が築かれていたため、路西里215番地古墳が最初に築造されたことが分かります。また、出土遺物の年代を比較してみても同じことが言えます。

路西里215番地をめぐる悲しい事情

普通、発掘調査などを経て博物館に所蔵されている様々な遺物には入手された理由などによって人間の住民登録番号のような一連の番号が与えられます。したがって、遺物1点ごとに1つの番号が与えられます。ところで、路西里215番地古墳から出土した太環耳飾や金製頸飾の場合、不思議なことに各々2つの番号が与えられていました。その理由は発掘直後、一部の遺物が日本に搬出されたためでした。1933年当時、緊急調査を担当した日本の考古学者である有光教一は路西里215番地古墳から出土した遺物の中から金製耳飾と金製腕輪1組のうち1点ずつ、77点の金製頸飾のうち44点を持って日本に戻りました。もちろん有光は1基の古墳から出土した遺物を半分に分けて韓国と日本で保管することに異議を唱えましたが、朝鮮古蹟研究会の会則に沿って行われたため防ぐことはできませんでした。
日本に渡ったこの遺物は東京帝室博物館に寄贈される形で所蔵されることになりました。幸いなことに1966年の韓日返還協定に基づいて路西里215番地の黄金装身具類などをはじめとするこれらの文化財が韓国に帰ってくることになりました。韓国に元々残っていた金製耳飾1点と金製頸飾は管理のためにすでに本館品番号で登録されていましたが、1966年に返還された残りの金製耳飾と金製頸飾は新たに博物館に収蔵されることになったため新受品番号で登録され2つの名前を持つようになったのです。
この路西里古墳出土品の中にはもうひとつの悲しい事情を持つ1組の金製耳飾があります。この路西里215番地古墳から出土した金製耳飾は日本から返還という形で戻ってきた後、1組という本来の姿を取り戻しました。しかしその後、路西里215番地の遺物のうち龍が表現された金製腕輪と金製耳飾、金製頸飾がそれぞれ宝物第454号、第455号、第456号に指定されましたが、当時の行政的なミスによって宝物第455号に指定されるはずの路西里215番地出土金製耳飾の代わりに慶州皇吾里52号から出土した金製耳飾が指定されてしまいました。その後、再び指定文化財に対する審議が行われましたが、宝物第455号には慶州皇吾里52号の金製耳飾がそのまま残ることになってしまいました。

金製耳飾 (左:慶州路西里215番地出土、右:慶州皇吾洞52号、宝物第455号出土) 金製耳飾 (左:慶州路西里215番地出土、右:慶州皇吾洞52号、宝物第455号出土)