統一新羅時代の石函と骨壺 : 崔 聖 愛

死に対する信仰と死後の魂に対する認識はいつの時代、どこの地域においても共通の関心事でした。それにもかかわらず、死とは何か?そしてその次に何があるのか?私の死はどのように受け入れなければならないのか?など終わりなき質問に対して、生きている人間の答えは常に疑問符を残さざるを得ないかもしれません。

それでも考古学者は亡者の遺体を処理する方法と、そのために生きている者たちが残した葬礼儀式に対する資料を通して、過去の人々が死だけでなく生についていかに考えていたのかを把握するために努力しています。韓国では古代から三国時代まで死後の霊魂があの世に行って現世と同じ生活を享受するという来世観から肉体が保存できるよう埋葬し、死後の居住地である墓を作ることが一般的でした。しかし、三国時代以後このような伝統的な死生観とは異なり肉体を早くなくす葬法があらわれますが、それが火葬です。

国宝第125号石函と骨壺

国立中央博物館の統一新羅室に展示されている国宝第125号の骨壺と石函は火葬した後に残った骨を入れる内容器とそれを保護する外容器である石函がセットをなすもので、一般的に蔵骨容器と呼びます。盒形の内壺は壺と蓋で構成され、全体的に球形に近い形をなします。蓋は緩やかな半球状をなし、壺は短い口縁に受け部があり丸い底部をなします。瓶と蓋には印花文が華麗に施文され、内外には緑色の釉薬が均等に施されています。花崗岩でできた球形の外函は蓋と胴部からなる盒(合子)形であり、表面を立体的な花弁形に仕上げました。石函胴部の内側には内壺が入るほどの深さにU字形の穴を作り、蓋には内壺の蓋を覆うことができるよう半球形のくぼみがあります。

石函と骨壺、伝慶州、統一新羅9世紀、石函の高さ43.0㎝、骨壷の高さ16.4㎝、国宝第125号

石函と骨壺、伝慶州、統一新羅9世紀、石函の高さ43.0㎝、骨壷の高さ16.4㎝、国宝第125号

上記のように死者を火葬して骨を納めるために作られた緑釉骨壺と石函は相当な手間をかけて作られました。内壺の内側は濃い緑色、外側は薄緑色の綺麗な色調を呈しますが、このような緑色の釉薬は統一新羅で使用された鉛釉の一つです。緑釉を施した例は少なく、当時の最高級器種である四耳壺、托盞などの特殊な器種の土器や鬼面瓦などの特別な用途の瓦当にのみ見られます。また、内壺には花文、点列文、瓔珞文などの印花文を刻んだスタンプを反復させて規則的に施文しましたが、蓋と壺の文様が互いに対称でありながらもバランスをとっており、容器の外観の華やかさと装飾的な効果を高めようとする製作者の努力を垣間見ることができます。外函もやはり1個の花崗岩を加工して、胴部と蓋に分けて内容器をしっかり安置できる空間を作り、外形も花文に繊細な加工を施すなど綿密な計画の下に製作されたことがわかります。特に外容器として石函は慶州朝陽洞と花谷洞で出土していますが、慶州以外の地域では発見例は全くなく、石函の外面を立体的に仕上げるのは国宝第125号のみです。したがって、この骨壺に葬られた被葬者は特別な人物であり、その死者をあの世に送る儀式を執り行わなければならない生者が丁寧に準備した蔵骨容器であると推測できます。一方、この蔵骨容器は1966年に日本から返還された文化財1326点の一つで日本人コレクターによって日本の敗戦直前に日本へ搬出され東京国立博物館に収蔵されていたもので、1965年の日韓協定によって韓国に帰ってきました。1967年には施釉された骨壺の中でもその優秀さが認められて国宝第125号に指定され、統一新羅を代表する蔵骨容器として展示されています。

統一新羅の蔵骨容器

新羅で火葬が受容された後、遺骨を処理する方法として蔵骨と散骨が見られます。私たちがよく知っている文武王(661〜681)は東海大王岩で葬式を執り行えという遺言を残し、火葬後散骨されたと解釈しています。記録上、初めて蔵骨した人物は新羅の僧侶慈蔵(590〜658)ですが、火葬後、石穴に骨を安置したと言います。一般的に火葬後、遺骨を塔婆や浮屠に安置した場合、その容器は舍利容器と呼ばれ、埋葬する容器を蔵骨容器、蔵骨容器が埋納された墓を火葬墓といいます。

新羅の火葬墓に蔵骨容器がいつから使用されはじめたのか正確ではありませんが、これまでに確認された最も古い火葬墓の蔵骨容器は、慶州東川洞で調査された石棺の中に土器からなる蔵骨容器と高坏を副葬し蓋石で覆ったものです。東川洞火葬墓の蔵骨容器は遺骨埋納のために別途製作された専用の容器ではなく、当時の古墳に副葬されていた有蓋盒を使用していました。

新羅の蔵骨容器はそのほとんどが土製であり、壺の形態が多いため骨壺ともいいますが様々な形態が見られます。おおよそ7世紀には半球形の胴体部に蓋を持つ日常用土器である盒を転用して蔵骨容器として用いますが、8世紀には新羅王京である慶州を中心に火葬墓が増加し、蔵骨容器の器種が非常に多様化し印花文が華麗に施文されます。9世紀には様々な種類や材質、文様が施文された蔵骨容器と連結把手が付いた有蓋壺と塔形つまみの付いた有蓋盒など専用蔵骨容器が作られました。

慶州東川洞蔵骨容器、新羅7世紀 慶州東川洞蔵骨容器、新羅7世紀

盒形蔵骨容器、統一新羅8世紀、国立公州博物館 盒形蔵骨容器、統一新羅8世紀、国立公州博物館

  •  印花文蔵骨容器、統一新羅8世紀

    印花文蔵骨容器、統一新羅8世紀
  •  塔形蔵骨容器、統一新羅9世紀

    塔形蔵骨容器、統一新羅9世紀
  • 有蓋連結把手付蔵骨容器、統一新羅815年、国立慶州博物館

    有蓋連結把手付蔵骨容器、統一新羅815年、国立慶州博物館

蔵骨容器を使用した火葬墓が発達した地域は新羅の中心地であった慶州です。忠孝洞3号石室墓封土、隍城洞23号、錫杖洞51・61・62・68・73号、甲山里5号、伝閔哀王陵など調査された古墳を見ると、土壙を掘ったり石槨を構築した後、遺骨を容器に入れて安置しました。この他にも錫杖洞東国大学生会館新築敷地、内南面花谷1里出土蔵骨容器のように内外二重に作られた容器に遺骨を入れたものも発見されています。二重容器は火葬した骨を直接入れる小さい内容器とそれを保護する大きな外容器で構成されていますが、内容器として一個だけでなく複数個を入れる場合もあり材料は主に土製です。一方、慶州朝陽洞の山から発見された石函の中の唐三彩三足鍑や東国大学生会館新築敷地から出土した内容器の蓋として使用された越州窯系青磁碗は唐から輸入された最高級の陶磁器です。また、花谷里で十二支像が副葬品として埋納されているなど慶州地域で出土した二重の蔵骨容器の中で特別な出土例が多く、新羅王京人のために作られた蔵骨容器の特徴を垣間見ることができます。

 三彩蔵骨容器、慶州朝陽洞、統一新羅8世紀、国立慶州博物館 三彩蔵骨容器、慶州朝陽洞、統一新羅8世紀、国立慶州博物館

緑釉蔵骨容器、慶州南山、統一新羅9世紀、国立慶州博物館 緑釉蔵骨容器、慶州南山、統一新羅9世紀、国立慶州博物館

仏教と火葬墓

火葬の風習は新石器時代から見られますが、本格的な火葬墓の登場が仏教の伝播と深い関連があることに異見がありません。仏教は韓国だけでなく古代東アジアの人々の死生観に大きな影響を与え、火葬は仏教の葬法として各地に伝播し定着しました。仏教の発生地であるインドでは仏教成立以前から肉体から魂を自由にして輪廻転生するために火で浄化する葬法として火葬が行われました。以後、仏陀の葬儀として火葬(茶毘)が行われた後、火葬は仏教式葬法として定着しました。

韓国でも仏教の受容と拡散によって火葬が行われ、新羅もやはり仏教的死生観の成立によって火葬という葬法に大きな変化が起こりました。それまで現在の生活が来世まで続くという考えによって死後の安息の場である墓を重要視しましたが、火葬による埋葬施設の簡素化は最終的には古墳築造行為の終焉をもたらしました。新羅が三国を統一した後、仏教が政治・社会・文化全般に大きな影響を及ぼしながら、仏教の終わりなき輪廻思想は死に対する新羅人の考えにも大きな変化をもたらしたことでしょう。したがって、自身の物質的付属物を振り払い、果てしなく繰り返される一連の死から解放され涅槃に至るための方法として仏教式火葬文化も新羅社会に深く拡大されたものと思われます。

仏教が新羅に深く根付いて仏教的来世観が新羅人に大きな影響を与えたとすれば、新羅人たちが火葬をして骨を納めるために作られた蔵骨容器から、彼らの心をどのように読み取ることができるでしょうか?現在の私たちが死者と彼らを送った者の願いを理解することはできませんが、蔵骨容器の製作が最高潮に達した時期、新羅の中心地であった慶州の王京人たちの蔵骨容器から一端の継世的来世観が残っていることをうかがわせます。国宝第125号蔵骨容器をはじめとする当時の最高級の材質と手間をかけて作った蔵骨容器は、彼らが持つ権力と経済的富を死後にも持っていこうとする姿を見せているのではないでしょうか?特に新羅王京で出土した蔵骨容器のうち舎利容器を模倣して作られたものがありますが、これは新羅の支配層が礼拝の対象物である仏舎利の奉安を彼らの死に反映しようとした姿を感じさせます。現世の栄光ある人生に対する欲望を止めることができない新羅人の姿は、誰も避けられない死の前で人生に大きな意味を置いて生きている現在の私たちの姿と重なりあっているのかもしれません。