靑銅銀入絲蒲柳水禽文浄瓶 : 蔡 劾 廷

青銅製の国宝第92号、蒲柳水禽文様浄瓶を初めて見ると、淨瓶全体を覆っている草緑色の表面がまず目を引きます。金属材質の特性をよく知らないひとであれば元々そのような色であったと誤解するかもしれません。文化財にある程度関心があるひとであれば、ちょっと色を見て青磁と考えるひともいるかもしれません。まず最初に目につく草緑色は、歳月が残した痕跡で、青銅が腐食した錆です。地の材質である金属を腐食させる錆が、この浄瓶をより美しく見えるようにするという点は、事実矛盾です。

淨瓶の胴体を見ると、柳や葦が育つ島々が点々としており、島の周辺の水辺には鳥たちがあちこち泳いでいます。また鳥の間に船に乗って川を渡る人々がおり、空には群れをなしてどこかに飛んでいく鳥達が見えます。まるで一幅の風景画のような場面は、胴体に溝を彫ったのち、0.5mmの太さの細い銀糸をそのなかに嵌め込む銀入絲技法で表現されたものです。いまは銀糸も錆びて黒く見えますが、最初に作った時は暗い地のうえに白く輝く銀糸が、この文様をより目立たせたと思われます。まさに高麗時代を代表するだけの繊細な金属工芸品です。

浄瓶、僧侶の必須品

 青銅銀入絲蒲柳蒲柳水禽文淨瓶、高麗12世紀、高37.5㎝、国宝第92号<br /> 高麗時代の12世紀に作られた蒲柳水禽文様の淨瓶で表面の草緑色は、青銅が腐食した錆の色です。淨瓶は綺麗な水を得るため、使用した僧侶の必需品でした。

青銅銀入絲蒲柳蒲柳水禽文淨瓶、高麗12世紀、高37.5㎝、国宝第92号
高麗時代の12世紀に作られた蒲柳水禽文様の淨瓶で表面の草緑色は、青銅が腐食した錆の色です。淨瓶は綺麗な水を得るため、使用した僧侶の必需品でした。

インドにおいて初めて使用され始めた淨瓶は、あちこち移動しながら修行生活をする僧侶が飲み水を保管した携帯用容器でした。現存するインドの淨瓶は、尖台が短いつまみのようになっており、韓国の淨瓶とは形が少し異なります。いま見ることができる主な高麗時代淨瓶の形は、唐の求法僧のひとりである義淨(623~713)の記録から確認できます。

仏教が盛行した中国唐代には、インドに行ってブッダの聖地を巡礼し、仏典を求める僧侶が沢山いました。義淨は10余年の間、インドに滞在しながら見聞きしたインド、そして南海の様々な仏教の状況と戒律などを詳しく記録した『南海寄帰内法伝』を残しました。義淨は、この本の6番目の項目で綺麗な水と汚い水を区分し、それぞれの水をいつ、またどのように使用するのか説明しています。また水を保管する瓶をどのように作るのかも詳細に描写していますが、この方法通りに作られた瓶の形がいまの淨瓶と似ています。このような形式の淨瓶は、中国の求法僧たちがインドを訪問し始めた紀元後3世紀以降から中国に伝えられたものです。

鳩摩羅什が漢訳した『梵網経』に修行生活をする僧侶は、瓶と鉢、錫杖、香炉、漉水囊など18種の物品をつねに持っていなければならないと書いてあります。このうち漉水囊は、水を濾す際に使用するもので品質が良い絹や木綿の布を使用します。布目が粗い布は、虫が水のなかに入ることができるため使用しません。この布を注ぎ口に掛けて結んだのち、水のなかに入れると戒律に会う淨水を得ることができます。このように綺麗な水を得るために使用された僧侶の必需品がまさに淨瓶です。

淨瓶と水瓶

1123年6月、中国宋の徽宗が送った使節団が高麗の首都、開京に到着しました。 前年に亡くなった睿宗を弔問して、徽宗の詔書を仁宗に渡すためでした。使節団の礼物などを管理する任務を受けた徐兢は、滞在期間の間、高麗の建築、衣食、風俗などを見た後、『宣和奉使高麗図経』を提出しました。残念なことに絵の部分は、現在伝わっていませんが、12世紀前半、高麗の人々がどのように生活したのか分かる重要な記録です。この本は、様々な器皿の名称と形、用途などを詳細に記録していますが、水を保管する容器として淨瓶と水瓶を言及しています。

徐兢が描写した淨瓶の形は、ここで紹介した国宝第92号、蒲柳水禽文様淨瓶の形とたいへん似ています。胴体の肩には2つの短い注ぎ口が付いており、瓶の首の上には管形の細長い尖台があると表現しています。したがって高麗では水だけ保管できるこのような形の水瓶を特別に「淨瓶」と呼んでいたことが分かります。今まで淨瓶と水瓶いずれも水を保管する器であるために、とくにこれといった区分なく混用されてきました。しかし工芸品において形は重要な形式のひとつであり、高麗時代にこのような形の瓶は淨瓶と言われたので、両用語を区分して使用することが必要です。

 柳と葦が生えた島、泳ぐ鳥達が描写された風景画のような場面は、胴体に溝を彫ったのち、細い銀糸をそのなかに嵌めて装飾する銀入絲技法で表現されたものです。

柳と葦が生えた島、泳ぐ鳥達が描写された風景画のような場面は、胴体に溝を彫ったのち、細い銀糸をそのなかに嵌めて装飾する銀入絲技法で表現されたものです。
韓国の淨瓶

 淨瓶は金属器だけでなく陶磁器でも作られました。この青磁淨瓶は、宝物第344号の水禽風景文様淨瓶です。

淨瓶は金属器だけでなく陶磁器でも作られました。この青磁淨瓶は、宝物第344号の水禽風景文様淨瓶です。

『三国遺事』によると、遅くとも7世紀末頃には韓国に淨瓶が伝えられたと考えられますが、最も古い淨瓶は、8世紀中頃作られた石窟庵に残っています。数点を除くと現存する多くの淨瓶は、高麗時代に作られたものです。金属淨瓶は、ほとんどが表面を装飾する文様が無く、文様がある場合は入絲技法で水辺の風景を描写した「蒲柳水禽文」が主に表現されています。この文様は、金属製淨瓶と香埦はもちろん、青磁淨瓶と鉢にも見られ、高麗時代にたいへん流行した文様であったことが分かります。

金属器だけでなく陶磁器でも淨瓶が作られましたが、青磁には多様な文様が様々な技法で装飾されていることが異なる点です。青磁淨瓶は、陰刻、陽刻、象嵌技法などで文様が刻まれており、蒲柳水禽文をはじめとして蓮花、菊花、牡丹、唐草文様など装飾紋様も多様です。左側の宝物第344号青磁淨瓶は、水辺の風景の一部を文様モティーフとしていますが、葦や柳に比べて雁や鴛鴦が大きく表現されています。このように陶磁器では文様が工芸的な図案に変化しており、金属器の文様とは異なります。

『宣和奉使高麗図経』を見ると、高麗では貴族と官吏だけでなく寺刹、道教寺院、民家などでも水を保管する時に淨瓶を使用したといいます。彼らが戒律を守る僧侶のように水を濾して淨瓶に保管したかは分かりませんが、寺刹外の全ての階層が仏教儀式具である淨瓶を使用するほど、淨瓶が普遍化したという点はたいへん特異です。おそらく仏教国家であった高麗では、日常的な生活にも仏教の影響が大きかったため、このような現象が起きたものと推定されます。