崔益鉉肖像 : 權 赫 山

この肖像画は石芝蔡龍臣(1848〜1941)が描いた勉菴崔益鉉の肖像画です。肖像画において崔益鉉は頭から腰まで描かれた半身像で表され、頭には毛冠を被り、身体には深衣をまとった姿で描かれています。画面右上には ‘勉菴崔先生 七十四歳像 毛冠本’、左下には ‘乙巳孟春上澣 定山郡守時 蔡石芝圖寫’ と書かれ、1905年に蔡龍臣が描いた崔益鉉の74歳像であることがわかります。(実のところ崔益鉉は乙巳年(1905)には75歳で、74歳に像を描いたとすれば丙午年(1904)に描かれた肖像画となります。)

この肖像画は蔡龍臣が描いた典型的な肖像画の形式を有しています。すなわち、無数の筆致によって人物の形態と量感、陰影などを表現しました。特に毛冠は細筆によってまるで翎毛画を描くかのように描写し、深衣は濁りのある白で厚みを持たせて孟春(正月)に着るのがふさわしいような色で描きました

朝鮮時代の士大夫または儒学者の肖像画は、官服に紗帽ないしは深衣に幅巾を着用した姿が大部分でした。しかし科挙に及第し正三品までの官職を務めた崔益鉉が、冬の猟師が被っていたような毛皮の帽子を身に着けた姿で肖像画に描かれたということは、相当の ‘破格’ であるとみることができます。

《崔益鉉肖像》(毛冠本), 朝鮮時代1905年, 51.5×41.5cm, 宝物第1510号

《崔益鉉肖像》(毛冠本), 朝鮮時代1905年, 51.5×41.5cm, 宝物第1510号

肖像画、主人公と画家

崔益鉉は1833年京畿道抱川に生まれ、1855年に文科に及第して正三品にまで登ります。しかし興宣大院君の失政を指摘して閑職に左遷され、済州島と巨済島で配流生活を送ったこともありました。また崔益鉉は衛正斥邪勢力において重要な役割を果たし、抗日運動と義兵蜂起を計画しましたが失敗し、対馬に拘禁されたまま1906年に息を引き取ります
崔益鉉は自身の肖像画を描くことに積極的でしたが、蔡龍臣が制作する前にも肖像画を描いたことがありました。

“文人朴海量が淨心寺の寅察・春潭を連れて訪ねて先生の肖像を描き、抱川の本宅にお連れした。…(中略)そして今また画僧を連れてきて先生の肖像を描いて、3か月の間お世話をして帰った。…(後略)”
勉菴先生文集付録第2巻年譜、丙子年(1876)閏5月 先生44歳

(門人朴海量 率淨心寺僧寅札,春潭來謁 摸先生像 奉還抱川本第(중략) 今又卛画僧入來 摸出先生像 三朔侍瑟而歸(후략) 勉菴先生文集 年譜 丙子 先生四十四歲)

蔡龍臣は37歳という遅い時期に武官に合格し十余年間武官生活を送りました。そうして51歳を過ぎてから多くの御眞と公卿を描いて肖像画家としての名声を得るようになります。蔡龍臣は漆谷と定山の郡守にも任命されましたが、特に定山の郡守として滞在した際に崔益鉉と出会い師匠として仕えるようになって彼と彼の弟子、周辺人物たちの肖像画を描き、とりわけ韓日併合(1910年)以降には多くの憂國之士たちの肖像画を制作しました。
崔益鉉の肖像画はそれ以前にも2本以上描かれましたが、崔益鉉の息子崔永祚はこれらの肖像画を気に入らなかったと言います。よって蔡龍臣に頼んで2本ずつを2回、合計で4本を描かせたようです。

“長子崔永祚が文人曺在學と共に先生(崔益鉉)の像を描いて大切にした。これ以前にも描いたものが2、3本あったが、全て真の姿ではないとしてお気に召さなかった。崔永祚が曺在學と議論して再び描こうとしたところに、全州の蔡龍臣がちょうど定山の宰となったのだが、彼は絵で有名であった。ついに文人趙泳善を遣り、行きて招き入れ2本を描かせたが、1本は家で大切にしてもう1本は趙泳善が持ち帰った。その後もう2本を模写させて1本は泰仁泰山祠へお送りし、もう1本は文人吳鳳泳が貰っていった。”勉菴先生文集付録第3巻年譜、乙巳年(1905、光武9)2月20日(癸亥)先生73歲
(長子永祚 與門人曺在學 繪藏先生像 前此所繪有數三本 而皆失眞未愜意 永祚與曺在學 議方改繪 全州人蔡龍臣 以画名 適宰定山 遂使門人趙泳善 往邀寫出二本 一本藏于家 一本趙泳善奉去 其後又移模二本 一本奉于泰仁泰山祠 一本門人吳鳳泳奉去 先生七十三歲。)

崔益鉉の文集に乙巳年(1905)は先生(崔益鉉)が73歳の年であると記録されています。もし蔡龍臣が乙巳年(1905)に描いたのであれば73歳像が正しく、蔡龍臣が74歳像を描いたのだとすれば乙巳年ではなく丙午年(1906)が正しいということになります。なぜこのような誤りが起こったのかは正確にわかっていません。崔益鉉の息子崔永祚が蔡龍臣に送った手紙を見ると、崔益鉉が死亡した以後も崔益鉉の肖像画を蔡龍臣が描いたことが推測できます。

“…(前略)私の亡くなった父(崔益鉉)の肖像画が押収されてしまったのですが、思うにもしやお聞きになりましたでしょうか? 残った祠堂だけががらんとして見るべきものもなく、空まで達した悲しみをどうして再び申し上げられましょうか? 今鴻山(現在の忠清南道扶餘郡鴻山面地域)にいる(私どもの父の弟子の)池憲夏が先生へ真心を込めて1本を模写し今までのものと同様に奉安するつもりでいるのですが、このことは領空(蔡龍臣)でなければ相談することができません。それゆえにはるばるいらっしゃるお手間を憚らず、こうしてお手紙を差し上げます。事実80歳になられた視力で絵を描くのは容易ではないと承知しておりますが、どうかこの情勢をご理解いただき恩恵を施していただけないでしょうか? 丹靑は今まで通りにして、帽子と帯、禮服があるのが良さそうです。谷城・咸平には既に全て返却され奉安したのですが、定山・抱川の2本は焼けてしまったそうで、ますます嘆かわしいことです。今肖像画を描いて祠堂に祀る許可が下りましたので、このことで躊躇なさる必要はありません。手が痺れてしまったので手短にここまでといたします。無礼をお許しください。壬戌(1922)後月(閏5月)21日に崔永祚は謹んで差し上げます。”

李斗熙, 李忠九共訳, 『石芝蔡龍臣實記』より

(弟惟先親眞像之曾被押收 想或入聞 而遺祠空虛 瞻依無所 窮天之痛 夫復何言 今在鴻山池友憲夏 以爲師之誠 將欲摹寫 一本爲依舊奉安之計 而此事非令座 無可相議處 故不憚遠役 玆以委進 固知八旬眼力 有難繪素 而幸望諒此情勢 另念施惠如何 丹靑則依前以帽帶章服 似好耳 谷城咸平皆已還安 而惟獨定山抱川二本 入於灰燼云 尤切痛恨 而今有模影享祠之許可 則不必以此趦趄 而手痿畧此 不備禮 壬戌後月念一 崔生永祚拜上)

このように、蔡龍臣は崔益鉉と交遊しながら生前はもちろん死後にも崔益鉉の肖像画を描きました。

破格の肖像画

では蔡龍臣はどのようにして《崔益鉉肖像画》(毛冠本)のような破格の肖像画を描くことができたのでしょうか?これに似た肖像画は朝鮮時代後期にもみられ、それは《姜世晃自画像》にほかなりません。姜世晃は朝鮮時代後期の藝壇の総帥かつ文人画家らしく何本もの肖像画が伝わっています。
。《姜世晃自画像》は文人画家が描いた自画像としては非常にまれな例であると同時に、服飾が当時の制度と全く一致していません。すなわち、平服である淡い青色の羽織に官服を着たときにのみ被る烏紗帽を身に着けています。姜世晃が当時の制度を知らなかったはずはなく、その理由を画像讃に書き入れました。

“あの人は誰だ?ひげと眉毛は真っ白であるが
頭に紗帽を被り体には平服を羽織っている
なるほど、心は田舎に在るのに名は官員の名簿に捕らわれているのか
胸中には数千冊の本を読んだ学問を抱き、隠した手には泰山を揺るがすほどの書の腕前が宿っているが
人々がどうして知っていようか、私自身の楽しみのために一度描いてみただけであるのに
老人は齢七十だ、老人の號は露竹だが
自身の肖像を自らが描き、その讃文も自ら作り
この年はまさしく壬寅年であった。”
(彼何人斯 鬚眉晧白 頂烏帽 披野服 於以見心山林 而名朝籍 胸藏二酉 筆搖伍嶽 人那得知 我自爲樂 翁年七十 翁號露竹 其眞自寫 其贊自作 歲在玄黓攝提格)

すなわち、姜世晃は現在では官職から退いているものの、過去の権勢と栄光を忘れていない姿を表現していると推測できます。姜世晃が自身の心境を《姜世晃自画像》において表現したように、蔡龍臣もまた崔益鉉の状況と心情を《崔益鉉肖像画》(毛冠本)によって表したと考えられます。

仮に肖像画が ‘乙巳年(1905)’ に描かれたのであれば、それは崔益鉉が73歳となる年でした。この時崔益鉉は官職に任命されては辞職を繰り返し、日本を排斥せねばならないという憂國衷情の意を何度も上奏していました。2月にはこのような理由で日本軍によって逮捕され苦難を経験しましたが、2月20日には既に言及した通り肖像画を描いたという記録が存在します。また崔益鉉が74歳となる1906年に肖像画を描いたのであれば、老齢であるにもかかわらず義兵を起こす直前に描いたはずです。しかし挙事は成功せず日本軍に逮捕され、対馬に幽閉されたまま病にかかり息を引き取ります。

蔡龍臣は崔益鉉が73歳または74歳の頃の姿を肖像画に描きました。蔡龍臣は ‘華やかな官服の高官大爵’ あるいは ‘程子冠に端正な深衣を着た大儒学者’ の姿を描いたというよりは、毛皮の帽子に分厚い冬服を身に着けた崔益鉉の姿を描くことで、抗日運動を行う ‘義兵長’、風前の灯と同じ祖国を案ずる ‘憂国之士’ の姿を描きたかったのだと推測できます。このような肖像画の大半が主人公あるいは子孫の注文によって描かれるのとは異なり、主人公と画家との特別な関係の中で描くことができたはずです