九章服―国王の威厳を象徴する礼服 :朴 承 元

九章服は、国王が備えるべき徳目を表す9種類の章紋を描き、または刺繍を施すことで、王の威厳を象徴的に表現した衣服です。高麗時代から朝鮮時代、そして大韓帝国期に至るまで、皇帝や王、王世子、王世孫が着用した礼服の1つである冕服です。「冕服」とは、頭にかぶる冕旒冠と胴体に着用する袞服の総称で、九章服は袞服の構成品うち「衣」に当たります。国立中央博物館が所蔵している九章服は、重要民俗文化財第66号に指定されている2点です。

 九章服(材質:銀造紗)前面(左)と背面(右),朝鮮 19世紀末~20世紀初,身丈137.5cm,裄丈94.5cm,重要民俗文化財第66号

九章服(材質:銀造紗)前面(左)と背面(右),朝鮮 19世紀末~20世紀初,身丈137.5cm,裄丈94.5cm,重要民俗文化財第66号

 九章服(材質:甲紗)前面(左)と背面(右),朝鮮 19世紀末~20世紀初,身丈136.5cm,裄丈97cm,重要民俗文化財第66号

九章服(材質:甲紗)前面(左)と背面(右),朝鮮 19世紀末~20世紀初,身丈136.5cm,裄丈97cm,重要民俗文化財第66号

冕服は、婚礼などの嘉礼をはじめ、宗廟社稷の祭事である吉礼で、そして国喪のような凶礼においける大斂衣として用いられました。冕服は、中国の典型的な法服で、冕旒冠に垂らした珠玉の飾り紐の数と、上衣と裳に施された装飾の模様の種類によって区分されます。皇帝は十二章服、王は九旒冕・九章服、王世子は八旒冕・七章服と区分されましたが、朝鮮時代には明よりも2等級低める親王制が施行されたことを受け、王は九章服、王世子は七章服を着用しました。
冕服が中国から朝鮮半島に伝えられ始めた正確な時期は不明ですが、三国時代にはすでに「冕旒冠」に関する記録が残っています。九章服という名称が使われたのは、高麗時代の文宗19年(1065)に契丹から九章服と玉圭を賜与された時からです。元の侵略期である恭愍王代(1352~1374)には、一時的に十二旒冕・十二章服を着用したこともありましたが、同王19年(1370)に明が建国されて以降は、太祖洪武帝(在位1368~1398)から下賜された九旒冕・九章服を着用するようになりました。
朝鮮時代に国王の冕服制度を制定したのは、15世紀半ばに刊行された『世宗実録』五礼の吉礼条が最初です。17世紀中葉から後半にかけての明清交替期以降、清は明と同様に朝鮮に冕服を賜与しようと頻繁に試みましたが、そのために制度が一定せず、混乱を招きました。これにより、朝鮮式の冕服制度の必要性が高まり、英祖代(1724~1776)の1744年に刊行された『国朝続五礼儀序例』を通じて、国俗制の冕服を制定するに至りました。朝鮮後期の王の冕服は、英祖代に制定したものが末期まで大きな変化なく適用されていました。ただ、制度的構成が複雑なため、それぞれの王の治世によって部分的に差が見られます。
冕服は、手に持つ「圭」、頭にかぶる「冕」、「衣」、「裳」、「大帯」、襦袢である「中単」、装身具である「佩」のほか、「蔽膝」、「綬」、「襪」、「舃」で構成されます。「袞衣」は、黒い「玄衣」と赤い「纁裳」を総称した用語です。現存するものは、玄衣と中単が結合したかたちで残っており、使用された織物の種類により、1つは2筋の縦糸を撚り合わせて横糸と織った、柄がなく薄手の絹織物である「銀造紗」の九章服、もう1つは小さな菱形が規則的に配列された綾絹のガーゼ地に柄がある絹織物である「甲紗」の九章服に分けられます。玄衣と中単のいずれも単衣で襟がなく、襟から袵(おくみ)の下まで縦布でつながる交袵形です。袖幅が広い袖口と、裾の周辺にも布が巻かれています。後身頃の上部には、織物で結び目を作った組み紐のメスボタンが4個付いていますが、そのうち後ろ襟の中心にある1個は、祭礼時に着用する白い絹織物である方心曲領を付ける際に使用したもので、袖付けの線上にある3個は、後綬が入った大帯を付けたものと考えられます。単衣であるため、服の内側の肩と腋に当て布が付いており、服の外側の胸紐と内側の結び紐はすべてあわせになっています。
九章服の章紋は、王が国を統治するうえで必要な徳目を象徴的に表したものです。玄衣に顔料で章紋を描くことは「陽」を象徴し、裳と蔽膝に染め糸で章紋の刺繍を施すことは「陰」を意味します。玄衣に描く5つの章紋は、竜、山、火、華虫、宗彝の模様です。神奇変化を象徴する「竜」は、両肩に顔が向かい合うように描き、天下を鎮定させる意味を持つ「山」は、背中の真ん中に描きます。紅色の花火模様の「火」は光輝を象徴し、雉模様の「華虫」は、模様の美しさを象徴します。祭器模様の「宗彝」は、孝を象徴しています。火、華虫、宗彝は、両側の後ろ袖の先に上から下にかけてそれぞれ3つずつ描かれています。このうち宗彝は、祭器の中に動物が描かれていますが、右の袖には勇猛を象徴する虎、左の袖には知恵を象徴する猿がそれぞれ1匹ずつ描かれています。
中単は、玄衣の襦袢です。長さがあり、袖と裾が広い交袵形の単衣で、上着の玄衣と同形態ながらも、長さが玄衣よりも前袵に付ける布の幅ぐらいあるのが特徴です。また、色合いは明るい青で、黒い当て布のある襟幅付近に「亜」字様の刺繍柄が11個描かれている点が異なります。

 九章服(銀造紗材質)の中単

九章服(銀造紗材質)の中単

 九章服(上質紗)の中単

九章服(上質紗)の中単

冕服の構成品のうち最も大きく変化したものは、中単の色合いです。文献には、一律に白と記録されていますが、国立中央博物館の所蔵品は青です。このように文献に記された色と実際に残っている文化財の色が異なる理由は何なのでしょうか。
正祖17年(1793)に朝服の中単である青い氅衣と白い氅衣をめぐり、どちらにすべきか頻繁に議論が交わされました。実際には制度化されることはなかったものの、青い氅衣を中単として着用するようになったのですが、これと時を同じくして冕服の中単も青色になったものと推定されます。ただし、白い中単が姿を消したわけではなく、儀礼の内容により、白と青の中単を区別して着用したものと考えられます。
中単は、玄衣よりも丈が長いです。朝鮮初期から玄衣が中単よりも少し短い形態だったのかは確認することができませんが、英祖19年(1743)に「冕衣は昔に下賜されたものだが、この服を着て朝廷に入ると、実に大切なものであるのに今は纁裳が玄衣の中に隠れてしまっているので、尚衣院にその制度を直させ、上を玄色にして下を桃色にする意を表明させよ」とい王命が下りました。これは、衣の丈が裳を隠さないように少し短くしろという意味に解釈されます。2点の九章服の玄衣と中単を比較してみると、中単が少し長く、裾が見えていますが、これは英祖が下した命令が後代まで守り継がれたことを示しているといえます。