驥馬人物図壁画片
  • 年代

    高句麗

  • 材料

  • 寸法

    高さ44.0cm

  • 番号

    K番 157

高句麗(紀元前37~紀元後668)は、鴨緑江(アプノクカン)中流で建国され、次第に周辺地域を統合し、遼河江の東から韓半島の中部にいたるまでの大帝国を築いた。高句麗の古都一帯から多く発見された壁画墓はユネスコ世界文化遺産に登録されるなど、その歴史的価値は広く認められている。高句麗の人々の衣服、生活像、社会像そして死後に関する世界観も窺える。

墓の壁画は3世紀末から7世紀まで多く描かれたが、時期によって内容や構成に変化があった。3世紀末から5世紀はじめまでは、主に墓の主と関連の内容が描かれ、来世でもこの世と同じ生活が自足することが願われた。5世紀中頃から6世紀はじめには、風俗を描いたものや、当時の仏教の流行と関連があると思われる蓮文様などが多く描かれた。6世紀中頃から7世紀前半には四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)が主なテーマとなった。

この壁画片は、5世紀に造られた双楹塚の羨道(墓の入口から玄室までの通路部)の西側にある石灰の壁に描かれている。本来、車や馬に乗っている人、楽隊など様々な絵が描かれていたが現在は消失している。この壁画片は1913年の調査当時は双楹塚(サンヨンチョン)の壁に描いてあったが、朝鮮総督府博物館に保管するために取り外され、今日に至っている。

描かれている男性は目鼻立ちがはっきりしており、細長い顔で、頭には二本の鳥の羽が刺されていて、高句麗の帽子を被っている。高句麗では身分や地位の高低により羽の種類や数が決まったという。服装は男女問わず高句麗で基本となっていたチョゴリとズボンを着用している。男性は馬には手馴れている様子であり、腰に掛けた矢筒からして狩りをしていることが分かる。記録によると、高句麗人は馬と矢を巧みに操り、狩りを好んだという。高句麗人にとって狩りは、軍事訓練の意味もあった。壁画に描かれた狩りの姿には、そのような高句麗人の尚武の精神が表れている。