農耕文青銅器 : 李 真 旼

先史時代にはまだ文字が発明されていなかったため文献記録がなく、地中から発見された遺物だけで当時の人々の生活を活き活きと描き出すことは容易でありません。もし当時の様子を描いた絵でもあれば、過去への旅路に翼をつけてくれることでしょう。そういった意味で、かつての農耕社会の一面を想像させる農耕文青銅器は非常に貴重な歴史復原資料であるといえます。

農耕文青銅器、初期鉄器時代、長さ12.8 cm、宝物第1823号
耕作する姿と壷に何かを入れている人物を非常に写実的な描写で表現しています。
農耕文青銅器の独特な文様

韓国の青銅器は大きく武器類、工具類、儀器類に分けることができ、大部分の文様は祭祀を執り行う際に使用された儀器類に刻まれています。儀器類に描かれた文様は、星や雷など敬畏の対象となる自然の崇拝物を線と点を利用して象徴的に表現した幾何学文様が主をなしています。緻密かつ精巧に描かれた幾何学的な文様構成や装飾によって美的センスを表現するとともに、支配者の権威を高めたものと考えられています。一方、写実的な文様が刻まれた青銅器はシカや人の手が描かれた肩甲形銅器、剣把形銅器などごく一部しか見られないことからも農耕文青銅器の存在は非常に特殊な事例と言えます。

農耕文青銅器は横幅が12.8cmで下の部分は欠けて残っていません。青銅器の最上部には小さな四角い穴が6個あいていますが、その穴が少しずつ擦れていることから紐に吊り下げて使用していたものと思われます。両面とも中央の縦方向と縁の輪郭に沿って斜線、直線、点線を用いた文様帯がめぐり、その内側の空間に絵が刻まれています。片方の面の右側には頭の上に長い羽のようなものをつけたままタビ(踏み鋤)で畑を耕す男性と鍬を振り上げた人物が見られ、左側には壷に何かを入れている人物が描写されています。これは春に畑を耕し土塊を崩す場面と秋に収穫した穀物を壷に入れる過程を示しています。その裏面には右左とも二股に分かれた木の端に鳥が1羽ずつとまっている姿が描かれており、縄状のリングをとりつける鈕が一個ついています。鳥は昔から穀物を咥えて持ってきてくれることからムラの安寧と豊かさをもたらし、天の神と地の呪術者をつなぐ存在として認識されてきました。したがって、先史・古代の墳墓や祭祀遺跡では鳥の形をまねた土器や鳥の姿が刻まれた青銅器なども発見されることがあります。また、ムラの安寧と平和、豊作を祈願する民間信仰の一つであるソッテとも関連性を見せています。

木の枝の上にとまっている鳥の様子。
鳥は昔から穀物を咥えて持ってきてくれてムラの安寧と豊かさをもたらし、天の神と地の呪術者をつなぐ存在と認識されていました。
紀元前5〜4世紀の呪術儀式と関連する儀器と推定

このように農耕文青銅器は人、農具、耕作地など農耕を行う姿と木の枝にとまった鳥の姿が持つ意味から、一年の豊穣と安寧を祈って行われた呪術的儀式と関連のある儀器と推定されてきました。そして、この遺物は発掘によって発見されたものではないため、どの遺跡からどのような状況で出土したのか等詳しいことは分かりません。しかし、大田槐亭洞、牙山南城里遺跡から出土した防牌形青銅器と形が類似していることから紀元前5〜4世紀頃のものと考えられます。紀元前5〜4世紀頃は韓半島の清川江以南地域を中心に韓国式銅剣文化が発展しはじめる時期です。特に、大田槐亭洞、牙山南城里、礼山東西里遺跡などで韓半島西南部地域において強力な支配者の出現をうかがい知る資料が集中的に発見されています。これらの遺跡では積石木棺墓と推定される遺構が確認され、そこからは青銅武器類、工具類だけでなく、剣把形、防牌形、円蓋形青銅器など様々な種類の儀器が新たに出土しています。

青銅器は採取した鉱石を溶かして取り出した銅に錫、亜鉛、鉛などを混ぜて液体にして鋳型に注いで作られますが、そこには複雑な製作過程が必要とされるため、権威の象徴や儀器として一部の人のみ持つことができました。そのような遺物が一つの墳墓から大量に出土するということは強力な支配者が登場したことを意味し、また遺物の性格から政治的支配者が祭祀を司った祭政一致の社会であったことを物語っています。したがって、その地域の最高支配者が一年の豊作を祈るため身に付けていた農耕文青銅器を通して、農耕が当時の生業と社会を維持するためにいかに重要であったのかを推し量ることができます。

土器の文様と青銅器時代の畑の形が類似

実際に遺跡から出土した資料からも農耕について裏付けることができるでしょうか?農耕に関する考古資料には農耕具と推定される石器、木器、骨角器、田畑遺構、植物遺存体などがあります。これまでの発掘成果から植物栽培は新石器時代から始まったと推定されています。これはアワ、キビ、ヒエなどの穀物と収穫時に使用されたと考えられる道具が新石器時代の遺跡から発見されているためです。しかし、本格的な農耕は青銅器時代から始まったと言えます。半月形石刀のように青銅器時代から農耕具として使用される石器が大量に出土するだけでなく、イネ、ムギ、アワ、ダイズ、アズキ、コムギ、キビなど栽培作物の種類と数量が増加し、大規模な水田と畑、水利施設、大単位の集落遺跡などが発見されることがその証拠です。最近では低湿地から木で作った鍬や杵も出土しています。

興味深いことは農耕文青銅器に描かれた畑や格子文が施されたように見える土器が実際に遺跡で確認されているという点です。畑が発見された代表的な遺跡として晋州大坪里遺跡がありますが、ここの畑は畦と畝からなっており農耕文青銅器に描かれた畑の形に似ています。また、晋州上村里、春川泉田里、加平連下里遺跡の青銅器時代住居から発見された大型の貯蔵用土器には格子文の痕跡があり、運搬または固定時に使いやすくするため紐でくくっていたことが分かります。口が狭く胴体部がボールのように膨らんだ土器の形も農耕文青銅器に表現された土器と似ています。

晋州大坪里遺跡の畑を上空から見た様子
畦と畝からなる様子が農耕文青銅器に描かれた畑の形に似ています。
豊作を祈る祭司長の姿と推測

一方、裸のまま畑に耕す男の姿は多くの人々の関心を集めました。なぜ裸の男が畑を耕しているのかについては、李健茂前国立中央博物館長が在職時に国立民俗博物館が発刊した資料集『韓国歳時風俗資料集成-朝鮮前期文集編』(2004)を検討するなかで解決の糸口を見つけました。彼は朝鮮時代の知識人である柳希春の文集『眉巖先生集』3巻に「立春裸耕に対する議論」が記されているという事実を発見したのです。柳希春はこの文集で咸鏡道や平安道など韓半島北部地域で行われていた裸耕について説明し、これを禁止しなければならないと記しています。裸耕とは、毎年立春の朝に裸のまま木牛を引いて種を蒔いたり植えりしてそこから得られた穀物を収穫するまねをし、その姿を見て一年を占うとともに豊穣を祈る歳時風俗のことです。

もちろん、農耕文青銅器が製作された時代と柳希春が記録を残した時代には2000年ほどの時間的なギャップがあります。しかし、朝鮮時代の風俗を通して農耕文青銅器に描かれた裸の男は実際に耕作する姿が描写されたのではなく、一年の豊作を祈って耕作する姿をまねた祭司長の姿を表現したのではないかと考えることができます。

このように農耕文青銅器は青銅器の製作水準と社会の性格、農耕の発達と儀礼を同時に物語るという点で、先史時代を代表する非常に象徴的かつ貴重な遺物であると言えます。