遺墨に込められた安重根の遺言 : 徐 侖 希

 安重根,安重根遺墨,1910年3月,137.4×33.4cm,宝物第569-7号

安重根,安重根遺墨,1910年3月,137.4×33.4cm,宝物第569-7号

安重根(1879~1910)は、1910年3月26日に旅順監獄で殉国するまでの40日余りの間に書いた数百点の遺墨に大韓独立と東洋平和への熱望を込めました。現在までに韓国内外で確認されている遺墨は62点で、そのうち26点が韓国の国宝に指定されています。国立中央博物館には、「庸工難用連抱奇材」という遺墨1点が所蔵されています。「鈍才な大工は人が連なって抱えるほどの貴重な巨木を扱いこなせない」という意味で、大物でなければ優れた人材を起用できないことを表します。この遺墨は、彼が殉国する直前の1910年3月に書かれたもので、左に「大韓国人安重根書」と記されており、その下に薬指が欠損した安重根の左掌の手形が押されています。

大韓独立のための人材登用

「書は人なり」という言葉があります。「書は体を表す」とも言いますが、心が正しければ文字も正しいという意味でもあり、また、文字がすなわちその者の人格であるという意味でもあります。前述の書を含め、安重根の遺墨には、彼の若い血気と闊達な気力がありのままに滲み出ているようです。その気力は、まさに風前の灯となった祖国を救おうとする熱望であり、自分のすべてを捧げて日本帝国主義の侵略と蛮行に立ち向かおうとする意志の表れです。安重根の大韓独立に向けた固い意志と、祖国への期待、東洋の平和を祈る遺墨の内容は、力に満ちた彼の筆致を通じて、一層生き生きとした感覚でわたしたちに迫ってきます。

この遺墨の「庸工難用連抱奇材」という句は、中国の歴史書である『資治通鑑』の一節を変形したものです。中国の春秋時代に魯に仕えた儒学者の子思(前492~431頃)が、衛の王に苟変という有能な将軍を推挙しました。苟変は、戦えば勝利する優れた将帥でした。ところが衛の王は、彼が役人の身ながら卵2つを賄賂として取り立てたことを理由に登用しないと言いました。これに対して子思は、聖人が人を役人として用いるのは、ちょうど匠が木材の長所だけを取るのと同じだと述べました。つまり、立派な大工は、数尋にもなる巨大なクコやアズサの木が少し腐っているからといって、その大きな材木を捨てはしないと言ったのです(杞梓連抱、而有数尺之朽、良工不棄)。

安重根は、『資治通鑑』にある「立派な大工(良工)は少し腐ったからといって、大きなクコやアズサの木(杞梓連抱)を捨てない(不棄)」という表現を「腕の悪い匠(庸工)は、人が連なって抱えるほどの大きさの貴重な材木(連抱奇材)をうまく扱えない(難用)」という句に変えました。『資治通鑑』の句が「些細な短所を理由に立派な人材を逃してはならない」という意味に対し、安重根の遺墨は、「人が連なって抱えるほどの巨木を自由自在に用いる立派な匠のような人材を起用すべきである」という意味として解釈することができます。

永遠なる大韓の青年、安重根

安重根は1879年に生まれて1910年に殉国するまで、32年の生涯を過ごしました。当時は国家の命運をまったく予測できない時代でした。西洋帝国主義の列強が朝鮮を虎視眈々と狙うなか、朝鮮は1876年に日本と不平等な江華島条約を締結して以降、日本をはじめとする西洋列強の資本と侵略に苦しめられました。これを脱却すべく、政治体制を上から変えようとした甲申政変(1884)は失敗に終わり、下からの変革を夢見た東学農民運動(1894)は、日本帝国によって崩されてしまいました。日本帝国の力を借りて進められた甲午改革(1894)は、人民から歓迎されませんでした。朝鮮の皇后が日本帝国の武力により無惨に殺されると、高宗は国号を「大韓帝国」とすることを宣布し、自主独立を国内外に明らかにして、近代的改革に向けた地盤作りを始めました。しかし、1904年に起こった日露戦争が日本の勝利に終わると、大韓の知識人が啓蒙運動と義兵運動によって救国の道を模索したものの、日本帝国の弾圧の下で大韓帝国はこれ以上国権を回復できませんでした。

このような時代を生きた安重根ですが、彼は普段は友人と義を結ぶ事、酒を飲んで歌い踊る事、銃で狩りをする事、そして良馬に乗って疾走する事を楽しんでいました。しかし、彼は1905年11月の乙巳勒約(第二次日韓協約)締結以降、自国を救う方法を探すべく上海に渡り、郭元良(Le Gac)神父と出会いました。郭元良神父は、「昔の言葉に『天は自ら助くる者を助く』(Heaven helps those who help themselves.)とある。君は速やかに本国に戻り、まず君がすべき事をせよ」と言いました。彼が述べた「すべき事」とは、「第1に教育の発達、第2に社会の拡張、第3に民心の団結、第4に実力の養成」でした。

郭元良神父の話に大いに覚醒した安重根は、大韓独立を成し遂げるその日まで、あれほど好きだった酒を断つことを誓い、国を救うための運動に積極的に加わりました。彼は、人民の無知を諭すために三興学校と敦義学校を設立し、また、平壌に鉱山会社を設立して産業振興運動を展開する一方で、国債報償運動を主導しました。しかし、1907年7月のハーグ密使事件以降に強まった日本帝国の弾圧により、高宗皇帝が強制的に退位させられ、韓国軍隊まで解散されると、沿海州に亡命し、独立戦争を起こそうと考えました。そして、義兵部隊を組織し、朝鮮国内への進攻作戦を繰り広げるものの、うまくいきませんでした。彼は再起を図るなか、1909年に同志11人とともに断指同盟を結び、大韓独立に身を投じることを誓って指を切り落とし、その血で「大韓独立」と書くことで志を一層堅固にしました。

1909年10月26日9時30分頃、ハルビン駅で安重根は伊藤博文に3発の銃弾を浴びせて処断しました。韓国侵略の元凶であり、東洋の平和の破壊者である伊藤が、満州侵略の第一歩を踏み出す瞬間でした。事を成し遂げた直後にロシア語で「コレア、ウラ(大韓万歳)」と叫んだ安重根は、現場で逮捕され、その後旅順にあった日本の関東都督府地方法院に送致されました。法廷で安重根は、「私が伊藤を殺したのは、韓国独立戦争の一部であり、また、私が日本の法廷に立つことになったのも、戦争に敗れて捕虜になったからである。私は個人の資格でこの事を行ったのではなく、韓国義軍参謀中将として祖国の独立と東洋の平和のために行ったのであるから、万国公法によって処理するようにせよ」と堂々と述べました。

しかし、1910年2月14日、安重根は死刑宣告を受けました。「命乞いをするな」という母の言葉に従い、控訴も断念しました。3月26日に死刑が執行されるまで、自叙伝である『安応七(安重根の幼名)歴史』と東アジア共同体に対する自分の思想を込めた『東洋平和論』を執筆しました。彼の言葉と行動に感動した地方法院と監獄の職員たちは、彼がみずから書いた字を求め、彼は数百点の字を快く書いて渡しました。

安重根義士は、死刑が執行される前に最後の遺言をしました。「私が死んだ後、私の骨をハルビン公園のそばに埋めて置き、わが国の国権が回復したら、故国に移してくれ。私は天国に行ってもなお、当然にわが国の回復に向けて努めるつもりだ。(中略)大韓独立の声が天国に聞こえて来れば、私はもちろん踊りながら万歳を叫ぶつもりだ」。後に安重根の切実な願い通りに国権が回復した時、彼は天国で踊りながら万歳を叫んだでしょうが、わたしたちは彼の亡骸をあれほど恋慕した独立国たる故国に迎え入れることができていません。また、1つの民族は2つに分断しています。彼が遺墨に書いた言葉のように、「立派な匠のような人材を起用」できていないからなのか、考えさせられます。