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扶餘・軍守里石仏坐像、金銅菩薩立像 - 百済の寺跡から出た仏・菩薩像
Date2019-02-22 Hit590

 扶餘・軍守里石仏坐像、金銅菩薩立像 - 百済の寺跡から出た仏・菩薩像 : 李 仁 英

1936年に扶餘邑軍守里にある一つの寺跡を調査した際、木塔があった場所の心礎石付近から仏菩薩像が一緒に出土しました。

木塔跡の心礎石は、三国時代百済の首都であった泗沘(現 扶餘)地域に残っている様々な仏教遺跡から確認できますが、軍守里寺跡の心礎石は正方形で、地下約1.8mの深さから確認できます。ここの寺の名前は分かりませんが、日帝強占期に発掘調査した結果、百済時代の寺跡であることが明らかになり、したがってこの仏菩薩像は三国時代百済の仏教彫刻として出土地と国籍が確実に分かる重要な事例のひとつです。現在は国立中央博物館の彫刻・工芸館仏教彫刻室に展示されており、軍守里の寺跡は、扶餘郡扶餘邑軍守里19-1番地として史跡第44号に指定管理されています。

 石仏坐像、百済6世紀中葉、高さ13.5㎝、宝物第329号 石仏坐像、百済6世紀中葉、高さ13.5㎝、宝物第329号

 金銅菩薩立像、百済6世紀中葉、高さ11.2㎝、宝物第330号 金銅菩薩立像、百済6世紀中葉、高さ11.2㎝、宝物第330号

百済の泗沘時期(538~660)、仏教が大きく隆盛する

百済は記録上、第15代枕流王元年(384)に中国・南朝である東晋から来たインド僧、摩羅難陀が伝えた仏教を受容しました。この時、王は都城の外まで出て、彼を迎えて宮に入り、礼節を保ったといいます。翌年2月には漢山に寺を建てて、僧侶10名を置くなど王室で仏教を受容するうえで、たいへん積極的であったことが分かります。しかし当時の仏寺の遺構は全く残っておらず、仏教受容初期の姿や内容は分かりません。

こののち475年9月、高句麗軍が百済の王都、漢城を占領し、蓋鹵王を殺害することにより、百済は南側に下って、熊津(現 公州)に首都を移し、ほどなくして聖王16年(538)には、再び泗沘(現 扶餘)に遷都しました。百済は、泗沘遷都の前後に大々的に都城と施設物を新たに築造して、様々な制度と文物を整備するなど、王権の回復と支配体制確立に大きな力を傾けました。これにより泗沘は、660年、百済が新羅と中国・唐の連合軍により滅亡する時まで123年間、百済の最後の王都として華麗な芸術を花開かせ、最高の全盛期を迎えました。

仏教もまた初期の受容段階を抜け出し、大規模寺刹の建立と多くの仏事が行われ、高水準の多様な美術品が制作されました。とくに聖王(在位:523~554)代には、仏教が大きく隆盛し、泗沘遷都した年である538年に仏像と経典を日本に送って仏教を伝え、塔や瓦などを制作する技術者などを派遣しました。中国の史書にも「僧侶と寺刹と塔が大変多い(僧尼寺塔甚多)」としたのは、当時の百済仏教がどれほど盛行したのかよく伝えています。

今日扶餘地域では多くの百済時代の寺跡が発見されています。すなわち都城中心にあった定林寺をはじめとして、東西外郭に昌王が副王である聖王のために創建した陵寺(567年)と死んだ王子のために創建した王興寺(577年)は、国家的な力を傾けて造成した大規模な王室発願寺刹でした。現在、確認された寺跡は、おおよそ30余ヶ所を超えますが、このうち軍守里の寺跡は、泗沘時期の最も早い初期遺跡に属しており、6世紀前半~中盤頃に創建されたものと推定されています。

中国の新しい文物を受容するのに積極的であった百済は、おおむね6世紀中葉頃には百済的な特徴をもつ文化を確立しました。対外的に中国南北朝および高句麗・新羅はもちろん、倭とも積極的な交流をし、国際的な文化を成し、とくに日本古代飛鳥文化形成に大きな影響を及ぼしました。

禅定印仏坐像、韓国初期仏像の姿

石仏坐像の高さは13.5㎝であり、金銅菩薩立像の高さは11.2㎝とたいへん小さいですが、両像ともに韓国初期仏菩薩像形式をよく示しています。仏像は、両手を腹部の前に表裏重ねて禅定印をしていますが、これは仏が悟りのために禅定に入った時の姿です。禅定印はインド初期の仏像をはじめとして、中国でも4~5世紀初期に流行し、韓国の場合には6~7世紀仏像に多く表現されました。

軍守里石仏坐像は、「コプトリ」とも呼ばれる滑らかな材質の滑石で作り、いっそう柔らかい質感を感じることができます。滑石は近くの地域から産出されるために、扶餘扶蘇山半跏像、仏菩薩並立像など百済の仏像から容易に確認できます。

四角の台座上に結跏趺坐の姿勢でしゃがむように座っている姿は、静かに禅定に入った状態を印象的によく表現しています。胸の部分の厚い襟の下にU字形の衣文が腹部の下に流れ落ち、台座全体を覆った裳懸座はたいへん装飾的で、華麗な効果を醸し出しています。裳懸座は、仏坐像において裾が台座を覆って落ちる形式で、忠清南道青陽で出土した陶製仏像台座は下段の幅2メートルを超える圧倒的な大きさの勇壮さと共に洗練された彫刻技法が断然目に入る傑作です。裳懸座は、ふつうインド・ガンダーラ仏像をはじめとして中国・龍門石窟など北魏はもちろん南朝の仏像にも見られます。

 陶製仏像台座、百済7世紀、下段幅250㎝、忠清南道青陽

陶製仏像台座、百済7世紀、下段幅250㎝、忠清南道青陽

金銅菩薩立像もまた仏像と同じで前面だけ彫刻していますが、全体的に金鍍金がよく残っています。頭には冠をかぶり、顔の両脇に宝髪と冠の帯が肩まで長く伸びています。胴体両脇に伸びた衣の裾や膝の位置で交差する厚い布の端、端が鋭い首飾りなどは初期菩薩像に共通して見られる特徴です。

軍守里仏像は、おおむね4~5世紀中国仏像と比較できますが、柔らかく温和な顔の表現などは既に百済化された様相を示しています。仏教受容以降、5世紀までは確認された仏教彫刻が無く、空白期として残っているなか、本格的な造像活動が行われる6世紀中葉頃造成されたと推定される初期仏教彫刻として、以後他の仏像の年代を推定する編年基準となっています。すなわち銘文がある高句麗の現存最古仏像である延嘉銘金銅仏立像(539)とともに韓国仏教彫刻史の幕開けを飾るという点で重要な意義がありますが、いっぽうでは高句麗延嘉銘金銅仏立像の大胆な省略と力強い造形性と比較するならば、軍守里仏像の丸く柔らかい百済特有の様式において明確な違いを伺うことができます。

扶餘邑軍守里寺跡、発掘と調査

扶餘邑は、今日扶餘郡庁が位置した中心地域です。東側には百済の武王(在位:640~641)時に造成されたと推定される宮南池(史跡第135号)があり、周辺には多様な百済・泗沘時期の遺跡が残っています。

軍守里寺跡についての最初の調査は、日帝強占期である1935~1936年に朝鮮総督府の指示で、計2回行われました。主に百済古墳・城跡・寺跡などを調査しましたが、軍守里一帯の地表調査で百済の瓦片・礎石などが発見されました。約1ヶ月半という短い期間発掘調査した結果、中門・木塔・金堂・講堂が南北一直線に配された1塔1金堂式の伽藍配置であることをはじめて確認し、金銅製光背・瓦塼類など多様な種類の出土品とともに仏・菩薩像2点もこの時出土しました。

しかしこの時期の調査は、正式の発掘ではなく短期間で行われた拙速の発掘であり、報告書の内容もまた不十分でその間遺跡の全貌をきちんと把握するうえで難点がありました。したがって韓国が光復したのち、この一帯に関する整備の必要性が絶えず提起されるなか、2003年に日帝強占期に初めて調査されてから実に70余年ぶりに韓国の専門調査機関が正式に再発掘しました。すなわち2005~2007年まで計3回にかけて国立扶餘文化財研究所で発掘調査した結果、金堂跡、木塔跡などの正確な伽藍配置と規模が再確認されました。2011年6次発掘では、西回廊跡一帯を調査し、北西側の建物跡を追加確認し、軒丸瓦と硯など百済・泗沘時期の文化財を多数収集しました。

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