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高麗末の戸籍関連文書
Date2019-02-22 Hit502

 高麗末の戸籍関連文書 : 李 孝 鍾

もし皆さんがある国を統治しているとしたら、統治する地域にどれ位の数の人が住んでいて、兵士として徴発可能な成人男子の数がどれ位で、女性と子どもが何人いるのか気になるでしょう。戸籍はかつて、こうした関心から作られ始めました。そして、戸籍作成の動機が効率的な統治にあったことから、戸籍に記載される内容も時代によって少しずつ変化を見せ、それによって戸籍の性格も変わっていきました。一般的に戸籍とは、家または家族を単位として、その構成員の身分や構成員間の関係を記録した公的文書のことをいいます。

高麗末に咸鏡道和寧で作成された「高麗末戸籍関連文書」

高麗末戸籍関連文書,高麗 恭譲王2年(1390),55.7×386.0㎝,国宝第131号

高麗末戸籍関連文書,高麗 恭譲王2年(1390),55.7×386.0㎝,国宝第131号

高麗時代に作成され、現在まで原本の状態で伝わっている唯一の戸籍関連文書に「高麗末戸籍関連文書」(国宝第131号)があります。この文書は、朝鮮建国の2年前にあたる高麗の恭譲王2年(1390)に、朝鮮の初代王となった李成桂(1335~1408)の故郷である咸鏡道和寧(現在の咸鏡南道永興)で作成されたものです。この文書には、李成桂の所有する奴婢と、李成桂との関係が不明瞭な40戸の戸籍が含まれています。

楷書体で書かれたこの文書は、全部で8幅の戸籍関連資料を繋げたもので、縦55.7cm、横386cmの巻子本として伝わっています。この文書は、英祖7年(1731)に王命によって現在のかたちとなり、咸鏡道永興の濬源殿に代々保管されていましたが、20世紀前半の植民地期にソウルに移されました。この文書は、高麗末の戸籍の体系と戸籍の作成過程を考察できる資料であるだけでなく、当時の人々の具体的な暮らしを鮮明に把握できる大変貴重な資料といえます。

「高麗末戸籍関連文書」の作成背景

「高麗末戸籍関連文書」が作られるに至った歴史的背景は、『高麗史』巻79、食貨2の戸口条に詳しく載っています。高麗時代には戸籍法があり、両班の場合は3年ごとに戸籍2通を作成し、1つは官署、もう1つは本人が保管するように定められていました。その後、高麗末に社会的な激変によって戸籍法が崩れ、良人が強制的に賎人になるなど、身分制度が混乱を極め、これに伴って様々な訴訟が起こりました。これに対して恭譲王2年(1390)、最高政治機関である都評議使司は、乱れた社会秩序を回復するために戸籍法を再び施行することを国王に建議しました。

この時に都評議使司は、戸籍作成の原則として、「戸主の世系、同居する子ども・兄弟・甥と姪・婿の族派、奴婢が伝来した宗派と子の名前・年齢、奴の妻や婢の夫が良人か賎人か」を記録するよう主張しました。この主張はおおむね受け入れられ、これによって作られた戸籍の一つが「高麗末戸籍関連文書」です

「高麗末戸籍関連文書」に表れた高麗時代の人々

全部で8幅からなるこの文書は、李成桂の所有する奴婢を記録した<第1幅>、戸籍作成の原則が示されている<第2幅>、奴婢戸を記載した<第3幅>、そして良人戸を記載した<第4幅~第8幅>で構成されています。この文書から分かる興味深い内容をいくつか紹介します。

<第1幅>李成桂の所有する奴婢を記録した文書

<第1幅>李成桂の所有する奴婢を記録した文書

李成桂が所有していた奴婢が記されている<第1幅>には、李成桂の功臣号と官職名が記録されています。以下は、<第1幅>の冒頭部分をそのまま引用したものです。この部分は、和寧府の戸籍大帳に基づいて発給した文書であるという点も重要ですが、朝鮮を建国する直前の李成桂の政治的な地位を示す資料としても興味深いです。この文書によれば、和寧府の地方官である事審官を務める李成桂は、「奮忠定難匡復燮理佐命功臣」で、「壁上三韓三重大匡」「門下侍中」といった官職から、食邑1000戸と食実封300戸を受けていた当代最高の実力者でした。

洪武23年(1390)庚午12月日、和寧府戸口柱帳の施行である。
東面徳興部
事審・奮忠定難匡復燮理佐命功臣・壁上三韓三重大匡門下侍中・判都評議使司事・吏曹尚瑞寺事・領孝思観事・兼入佐上護軍・領経筵事・和寧府開国忠義伯・食邑千戸・食実封三百戸李成桂。

戸籍作成の原則が示されている<第2幅>には、都評議使司が国王に建議した戸籍作成の原則と、これを国王が修正した内容が連続して記録されています。この2つの原則の内容を比較することは、この戸籍関連文書の性格を明らかにするうえで大変重要です。ところで、この文書を見ると、「右副代言・正順大夫・経筵参賛官・兼判典客寺事・進賢館提学・知制教・知工曹事臣李芳遠」が、王命を受けて修正された戸籍作成の指針を変更したことになっており、興味深いです。これは李成桂の五男である芳遠(のちの第3代王太宗)が、戸籍の施行過程において核心的な役割を果たしていたことを示す内容です。

残りの<第3幅~第8幅>には、李成桂との関係性の有無が不明な40戸の戸籍(良人戸25戸、奴婢戸15戸)が記録されています。これらの戸を通じて、当時の人々が営んだ暮らしの実態を明らかにすることができるのですが、そのうち、身分別にそれぞれ一例を挙げれば、以下の通りです。前者は奴婢戸、後者は良人戸の事例です。

1 <第3幅>奴婢金上左の戸籍
2 <第4幅>良人張徳宝の戸籍

戸、前判事朴忠用の戸奴である金上左は年44歳、金大佐の妻で宰臣高閑の戸婢である甘勿伊は年42歳である。同戸の戸別奴である金元は年42歳、金元の妻で宰臣金元の戸婢である好奇は年42歳である。同戸の戸別奴である加伊は年27歳、加伊の妻で同戸婢の訥斤伊は年20歳である。

戸、前備巡衛精勇中郎将の張徳宝は年45歳、本貫は蔚珍、父は令同正の張心<死亡>、祖父は散員同正の張延、曾祖父は散員同正の善老、母は伊大<死亡>、本貫は蔚珍(同村)、外祖父は戸長の林和尚である。戸、妻の延之は年44歳、本貫は通州、父は令同正の金英佐、祖父は検校護軍の金位、曾祖父は令同正の光文、母は良衣夫伊、外祖父は李臣平、本貫は城州である。あわせて産まれた一男の張松は年10歳、一女の夫徳は年8歳、二女の件伊加伊は年5歳である。印<第4幅>

両身分の戸籍を比較すると、良人戸と奴婢戸では記載方法に多少違いがあることが分かります。奴婢戸は主人との関係をはっきりと把握しようという意図が目立つのに対し、良人戸は戸主の世系を把握することに注目している点が目立ちます。

例えば、奴婢戸の戸主である金上左は「前判事の朴忠用の戸奴」ということをはっきりと示しており、彼の妻である甘勿伊が他人の婢である事実を厳格に区分して記録しています。これに比べ、良人戸の戸主である張徳宝は、自分の職役、名前、年齢、本貫、父・祖父・曾祖父・外祖父の職役と名前、母の名前を詳細に記録しています。

このように、身分別に異なったかたちで記録することは、朝鮮時代の戸籍でも同様に見られます。しかし、戸ごとに大きな文字で「戸」と表記したり、良人戸において妻の名前を記載したりする点は、朝鮮時代の戸籍とは異なる事例といえます。これは、国家がその構成員を把握する方式や、女性に対する認識において、高麗と朝鮮それぞれの社会の差を示しているのではないかと考えられます。

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