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李成桂が発願した舎利荘厳具
Date2019-02-22 Hit485

 李成桂が発願した舎利荘厳具 : 徐 聖 鎬

2つの舎利容器とそれを収めた青銅器

1932年10月6日、金剛山の月出峰(標高1580m)で山火事の延焼阻止線工事をしていた人夫が、1つの石の箱を発見しました。その中には、至る所に銘文が刻まれている舎利荘厳具が入っていました。銘文の内容を要約すると、朝鮮王朝の初代王、太祖李成桂(在位1392~1398)が夫人や1万人余りの人々とともに弥勒の下生を待ちながら、1391年5月に金剛山の毘盧峰(標高1638m)にこの舎利荘厳具を奉安したと書かれています。李成桂は、中朝国境地域の土豪出身の部将として、わずか1年2カ月後に新たな王朝を建てて王になった人物です。当初、毘盧峰に奉安された舎利荘厳具がどのような経緯で月出峰から発見されたのかについて、明らかになっていませんでした。

銀器、銅器や白磁など全部で9点からなるこの舎利荘厳具の最内部には、ラマ塔型の舎利容器が鎮座します。ラマ塔型の舎利容器の中心には、上下が金属で真ん中がガラスでできた細い円柱があり、釈迦の舎利はその円柱のなかに収められていたと思われます。この円柱は、蓮花模様の受け台の上にある円柱形の銀板のなかに入れられています。円柱形の銀板の外側には、李成桂の功臣号や官職、名前などが、夫人の姓とともに刻まれています。
この円筒の上に蓋のようにかぶせてあるのが、ラマ塔型の容器です。この金属でできた容器は、卵形の塔身とその上の相輪を別個に作った後に接合したものです。卵形の塔身の四方には、正面を向いて立つ仏が彫られています。相輪は、1枚の銀板を使用して、高度な打ち出し技法で作られています。

李成桂発願舎利荘厳具一括,江原道金剛山月出峰出土,高麗 1390・1391年

李成桂発願舎利荘厳具一括,江原道金剛山月出峰出土,高麗 1390・1391年

ラマ塔型の容器を支える蓮花模様の受け台は、銀板1枚で打ち出した最下段部と、蓮花模様に切った3枚の銀板が連結されています。下段の脚部は、独特な変形如意頭文の形態で、その上に蓮弁紋の支えと円形の受け底などが2段で表現されています。

ラマ塔型の舎利容器は、最も内側の細い円柱状のガラス部分を除いて、すべて銀で作られ、部分的に金があしらわれています。このような部分メッキは、現存する高麗時代の金銀器や舎利荘厳具から事例を見つけるのが困難ですが、恐らく当時新たに流行した様式と思われます。

銀製鍍金ラマ塔型舎利容器,高麗 1390年(推定),全長15.5cm 銀製鍍金ラマ塔型舎利容器,高麗 1390年(推定),全長15.5cm

ラマ塔型舎利容器は、八角屋根の舎利容器の中に収められています。八角屋根の舎利容器もまた、蓮花模様の受け台、低い八角柱状の銀板、そしてその銀板をさらに覆う八角屋根の容器をそれぞれ別個に作って組み合わせたものです。八角柱状の銀板の表面には、1390年(高麗・恭譲王2)3月にこの舎利容器を作ったことと、発願者の名前などが書かれています。発願者は、上流層の女性、僧侶、高位官僚、そして舎利荘厳具一式の制作責任者と思われる人物たちです。この銀板をさらに覆う八角屋根の容器にも、前述のラマ塔型容器のように側面に仏の姿が刻まれています。両足の先を広げ、両手を合わせて立っているこれらの仏像は正面を向いており、高麗仏画の典型的な仏像の姿とは異なます。このように正面を向いた姿は、朝鮮初期の美術において見られる特色という点で、朝鮮時代に繋がる新しい様式と評価されています。

八角屋根の舎利容器は、青銅器に入れられています。青銅器の口の外側にも銘文があります。1391年(恭譲王3)2月にこの器を作る際、その制作費用を出した僧侶らの名前が、点刻で刻まれています。この銘文で、器について「蓋付きの舎利の器」と表現している点から、本来この青銅器には蓋があった事実が分かります。しかし、現在その蓋は伝わっていません。青銅器の内側と外側の面には、鑿で引っかいた痕が見られますが、これにより、この青銅器は鋳造されたものではなく鍛造された可能性が高まります。

銀製鍍金八角堂型舎利容器,高麗 1390年,全長19.8cm

銀製鍍金八角堂型舎利容器,高麗 1390年,全長19.8cm
白磁からなる器と香盒、香炉、そして…

白磁鉢1,高麗 1391年,高さ19.5cm

白磁鉢1,高麗 1391年,高さ19.5cm

ラマ塔型の舎利容器と八角屋根の舎利容器を収める青銅器は、発見当時、口が欠けている白磁鉢2のなかに入っていました。白磁鉢2には、内側に詳細な内容を記した銘文があります。「金剛山毘盧峯舎利安遊記」という題名で、1391年(恭譲王3)5月に李成桂夫婦が、月菴という僧侶や上流層の女性をはじめとする1万人余りの人々とともに金剛山毘盧峰に舎利荘厳具を安置し、弥勒の下生を待つという内容です。

香盒と考えられる白磁器1の外側にも、李成桂と1万人余り人々が1391年(恭譲王3)4月に弥勒の下生を待ちこがれて発願するという内容の文が陰刻されています。このように、2つの白磁鉢の銘文の内容が相当な部分で重複していますが、舎利荘厳具の奉安場所を明示して関与した人物を詳細に記している点で、白磁器2の銘文が最も詳しいものといえます。


白磁鉢2には、糸切部分にも銘文があります。1391年(恭譲王3)4月に信寛という僧侶と方山の陶工である沈竜が一緒に発願するという内容です。おそらく沈竜が白磁鉢を作り、李成桂に捧げたようです。方山は今の江原道楊口郡に属する地域で、最近もこの場所で、この舎利荘厳具の白磁と胎土や釉薬、燔造の方式が共通する14~15世紀頃の白磁片が発見されています。

白磁鉢1と白磁鉢2、そして後述する白磁鉢3と白磁鉢4、白磁香炉など、この舎利荘厳具のすべての白磁は、韓国の白磁の歴史において非常に注目されるものです。これらのすべてが、従来の高麗白磁とは異なる新たな白磁として、朝鮮時代の硬質白磁に先行する様式を示しているためです。これらの生産地が方山という場所であることを明らかにした点も、その史料的価値がとても大きいです。

さて、これまで見てきた物には、すべて銘文が記されていました。しかし、この舎利荘厳具には、銘文がない物もあります。銀製の耳かきと白磁鉢3、白磁鉢4、そして白磁香炉には、何の銘文も記されていません。薄くて長い銀板を叩いて作った銀製の耳かきは、形状が耳かきに似ていることからそう呼ばれていますが、実際には舎利を移す道具と見るのが自然と思われます。白磁香炉は、高麗時代の一般的な香椀の形式によりつつも、ラッパ状の器台の代わりに糸切を付した独特の形式を示しています。白磁鉢3と白磁鉢4は、それぞれ白磁鉢1と白磁鉢2の蓋として使用された物と思われます。

1 1白磁鉢2,高麗1391年,高さ17.5cm
2 白磁鉢2 (内側の面)
3 白磁鉢2 (底の部分)

1 白磁鉢3,高麗1391年,高さ13.6cm
2 白磁鉢4,高麗1391年,高さ9.8cm
3 青磁舎利盒,霊巌・靑風寺址五層石塔出土,高麗 11世紀,高さ8.5cm,全南大学校博物館所蔵 <出典:『仏舎利荘厳』(国立中央博物館,1991年),76頁>

この舎利荘厳具は特別に派手なわけではありませんが、美術史的に大きな価値があります。舎利容器の各所に施された部分メッキ技法や、ラマ塔型舎利容器の受け台と相輪に施された打ち出し技法は、当時のほかの金属工芸品において見ることが困難だからです。また、ラマ塔型舎利容器と八角屋根の舎利容器の側面にめぐらせて彫った仏の姿において、正面観が強調されている点は、高麗時代の仏画や仏教彫刻よりも朝鮮前期の石像と様式的に近いです。その上、白磁鉢や白磁香炉などの白磁は、従来の高麗白磁とは異なる新たな硬質白磁として、朝鮮時代の硬質白磁に先行するものとして位置付けられます。このように、この舎利荘厳具は、高麗末期当時の美術の内容をより豊富に含みつつ、高麗時代の美術と朝鮮前期の美術を繋ぐ遺物という点で、その美術史的な意味を高く評価することができます。

美術品を越え、歴史遺物になる

この舎利荘厳具は、歴史的な文化財としても、その価値は大変特別なものです。舎利荘厳具の制作から金剛山の毘盧峰への奉安に至るすべての仏事の過程において、責任者として主導した主人公が、ほかならぬ李成桂であるからです。李成桂は、本来は高麗王朝の中央政界に存在感を示すことのない辺境の土豪の子に産まれ、一介の部将に過ぎませんでした。しかし、国や民生に大きな脅威となった倭寇や紅巾賊といった外敵を相次いで撃退し、高麗王室を守護して国を防衛するという、極めて大きな功績を挙げました。その結果、一介の辺境の土豪出身だった李成桂は、一躍中央政界の重要人物へと浮上し、政治的権力も非常に強くなりました。当然に彼に付き従う官僚は増え、一般の人民の間でも李成桂の人望は次第に高まっていきました。

そのような状況の下、中国の明との領土をめぐる葛藤により、高麗第32代王である禑王(在位1374~1388)が1388年(禑王14)に遼東地域への攻撃を決定しました。王命を受けて攻撃隊を率いた李成桂は、遼東への攻撃が現実的でないという考えから、ついに中朝国境を分ける鴨緑江の中洲において回軍を決行します。王命を受けて戦場に向かった将軍が軍を引き返したことは、今も昔も王命に背く反逆行為を意味します。李成桂は結果的に反逆を選択したのであり、命を懸けた彼の選択は成功しました。王都である開京は李成桂の軍によって掌握され、李成桂は政敵を除去しました。そして、ついに高麗王朝の権力の中心に李成桂が立つことになりました。

李成桂が1万人余りの人々とともに仏教の聖地である金剛山の毘盧峰に舎利荘厳具を安置した1391年5月は、李成桂が鴨緑江での回軍によって権力を掌握してから3年が過ぎた時点であり、彼の大きな野望が最高潮に達していた時期です。また、1391年5月は、李成桂に付き従う改革派官僚たちによる前代未聞の土地改革が断行された月でもあります。いわゆる科田法の宣布です。李成桂とその従臣は、科田法の施行により、権力者が不法に占有した土地の相当部分を国庫に帰属させたため、新進の官僚に土地を支給できるようになりました。そればかりでなく、権力者に土地を奪われ、または過度に多くの収穫物を収奪されていた農民の生活を向上させる成果を挙げました。

こうして見ると、李成桂が1万人余りの人々とともに弥勒の下生を待ちわびながら、1391年5月に仏教の聖地である金剛山に舎利荘厳具を安置したことは、単なる宗教儀式を越え、非常に政治的に企画されたイベントとして浮かび上がってきます。この時期は、李成桂が高麗王朝を滅亡させ、新たな王朝を建てて王として即位するわずか1年2カ月前にあたります。当時の李成桂とその従臣は、李成桂について、塗炭の苦しみを舐めてきた高麗人民を救済し、新たな世を開闢する弥勒のような存在であると自負し始めたのではないでしょうか。周知の通り、仏教で弥勒菩薩は、釈迦の入寂後56億 7000万年後にこの世に降臨し、3度の説法を通じて地上界を楽園にして現世の人々を救済するという一種のメシアのような存在だからです。

李成桂とその従臣たちの胸中を知る由はありません。しかし、高麗王朝が倒れる1年2カ月前に前代未聞の経済改革とセットで行われたこの舎利荘厳具の奉安こそが、500年の歴史を誇る高麗の退潮と最高権力者である李成桂の野望が交差する、実に政治的で歴史的な儀式であったと考えられます。李成桂が発願した舎利荘厳具の独特な位置付けは、その美術史的な価値とともに、このような歴史的な脈絡からも見出すことができるといえましょう。

※李成桂発願舎利荘厳具については、最近周炅美教授によって総合的で体系的に整理されており、大いに役立ちます(周炅美,2008年3月「李成桂発願仏舎利荘厳具の研究」(美術史学研究257,韓国美術史学会)。本稿でも、舎利荘厳具の美術史的評価や銘文に見られる人物分析などで、周教授論文を大いに参考にしました。但し、舎利荘厳具の銘文に見える一部の人物に対する内容や、舎利荘厳具の奉安当時の政治状況、および舎利荘厳具の歴史性については、筆者の意見を述べたものです。

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