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李采肖像
Date2019-02-22 Hit524

 李采肖像 : 李 秀 美

朝鮮時代後期に活躍した文人李采(1745~1820)が、東坡冠をかぶって深衣をまとい、正面を見つめながら端正に座している姿を描いた半身像です。

文人であり官吏でもあった李采

《李采肖像》の主人公である李采(1745~1820)は朝鮮時代後期に活躍した文臣であり、本貫は牛峯、字は季良、そして號を華泉といいます。彼は、金昌協の文人で老論の中心人物でもあった陶菴李縡の孫にあたります。

李采は1774年(英祖50)に司馬試に合格して官職に就きました。陰竹縣官となったころに罪なくその任を退き、帰郷して学問に専念し家業を継ぐことに心血を注ぎました。1790年(正祖14)には再び官職に就き戶曹参判、漢城左右尹及び同知中樞府事を歴任しました。著書として『華泉集』16巻8冊があり、諡號は文敬です。

《李采肖像》, 朝鮮時代, 1802年, 絹本着色, 98.4 × 56.3 cm, 宝物第1483号

《李采肖像》, 朝鮮時代, 1802年, 絹本着色, 98.4 × 56.3 cm, 宝物第1483号
どのような服を着るのか、深衣と東坡冠

58歳の李采は東坡冠をかぶり深衣を着た姿で表されています。深衣は士人が普段身にまとう服飾として、朱子学の伝来以後儒学者たちに愛用されました。主に白絹から作られますが、直領型の襟と裾、下裳の裾まわりに黒い襈をめぐらせています。深衣を着るときには紗織りの黒い幅巾をかぶって帯を締め、白地の襈と幅巾の黒が厳正な学者の姿勢をあらわにしました。このような装いの代表的な肖像画が《宋時烈肖像》です。宋時烈は朱熹の教義を実践することに生涯を捧げた性理学者として、《朱子像》の姿に倣い深衣と幅巾を着用することで、厳格でありながらも明快な美感と省察的な姿勢が強調されました。

《宋時烈肖像》, 朝鮮時代後期, 絹本着色, 89.7 × 67.6 cm, 国宝第239号

《宋時烈肖像》, 朝鮮時代後期, 絹本着色, 89.7 × 67.6 cm, 国宝第239号


このように朝鮮時代の儒学者たちを描く際、どのような服飾を身につけているのかということは、人物のアイデンティティと志向性を表出させる重要な問題でした。したがって品階を知らせる官服と胸背、角帯を着用して人物の官僚的な位相を表すのか、あるいは簡素な平服姿で質朴な造形と内省的な修養の意志を押し出すのかを選択しなければなりませんでした。

李采は宋時烈式の装束である幅巾と深衣の代わりに、東坡冠と深衣を着用しました。東坡冠は士人たちが普段からかぶっていた冠で、馬毛が用いられ中央部分の冠が上向きに突出し、左右にやや小さな冠飾を付けたものです。宋の文人蘇軾がかぶったとされ、彼の號から名付けて東坡冠と呼びます。のちに原文を紹介しますが、肖像画の上部に文を記した李采は自身の冠を程子冠だと認識していました。程子冠もまた朝鮮時代の士大夫たちが家の中で好んで着用していた冠であるという共通点を持ちますが、山の字の形が2段あるいは3段に突き出るように作られており東坡冠とはその形状において差異がみられます。

胸には白色の包帯を飾り紐の位置で固定させ、端に黒い線をめぐらせた包帯をリボンの形に締めその上に五方色の糸で模様を編んだ廣多繪の帯を垂らしました。白と黒のコントラストを成した《宋時烈肖像》と比較すると、五方色の廣多繪が添えられより華やかで装飾的な印象が加えられたという変化が生じています。

どのような姿勢をとるのか、正面図

《李采肖像》においてまず目を奪われるものは、正面を見つめている瞳です。瞳孔の周りの虹彩を黄色で着彩することで瞳がいっそう生気に溢れているように思われます。このように正面を見つめている姿勢は朝鮮時代の肖像画においてたびたび見いだすことができますが、主流はやはりやや横を向いた肖像の姿勢でした。正面図の長所は自己省察的な面貌をより直接的に伝え、私たちのよく知る《尹斗緖自画像》やここで紹介する《李采肖像》などのように肖像を鑑賞する人々に強烈な印象を残すことにあります。

顔の輪郭を定めたあとに画家はまず顔の裏面に背彩を行いました。背彩とは画面の裏に彩色する技法であり朝鮮時代の肖像画の重要な特徴です。背彩を行うと表から見たときに絹の繊維の隙間から背彩した色が透け、柔らかな色相効果を活かすことができるという利点があります。透明で澄んだ顔色を再現できるようになり、朝鮮時代の士大夫たちに好まれる肖像画の技法であり容易に定着させることができるという長所を持っていました。

背彩のあとに表面に短く描写的な筆づかいで何度も描くことによって、顔立ちの屈曲や特徴が活かされました。筆致を無数に重ねて陰影を作り、明るい箇所は筆の線を減らしました。小鼻、眉間と眉毛の周りは明るく、顔のふちに向かうほど暗くすることで盛り上がった立体感を獲得しました。筆致が顔の全体的な雰囲気の中に溶け入り朦朧とした印象を与える《徐直修肖像》とは異なり、《李采肖像》では目の周囲にみられるように筆の線の主体性が部分的に際立っており《徐直修肖像》よりも後の時期の技法的な特徴を見せています。冠が重なる面ごとに黒色の濃度が異なり、目元のうっすらとしたしみ、鼻筋の傷跡などを描写するなど、詳細な特徴までを捉えています。

非常に繊細な顔面描写と比べて、服のしわは線を主体に大胆に処理し平面的な印象を与えます。深衣の下地として白を配色し、その前面でしわの曲がりに影が落ちるようにしました。胸に結んだ廣多繪の編み込みに沿って黒、白、赤、青、黄の色を前面に塗り、彩色の効果が目を引いて肖像に生気を与えます。正面をはっきりと凝視し立体的に描写された顔とは異なり、身体は緊張感が除かれ自然に表現されており対照的です。

 《李采肖像》の顔 《李采肖像》の顔

《徐直修肖像》, 李命基・金弘道, 1796年, 絹本着色, 148.8 × 72.4 cm 《徐直修肖像》, 李命基・金弘道, 1796年, 絹本着色, 148.8 × 72.4 cm

李采を語る、李采自身と友人たちの文

画面右上には李漢鎮(1732〜1815)が篆書で書いた李采自身の文である自題文が、左下には卓越した文章家である兪漢雋(1732~1811)が72歳となった1803年(純祖3)に作りこれを兪漢芝(1760〜1834)が隷書で書いた讃文が、左上には松園が1807年(純祖7)に行草で書いた圓嶠老人の讃があります。ここでの圓嶠老人は書家の李匡師ではなく、圓嶠という號を用いた別の人物であることが推定できます。

とりわけ李漢鎮が書いた李采の文と同一の内容で「題眞像」という題名の自題文が李采の『華泉集』巻9に掲載されていますが、細注にて ‘壬戌’ と補足されており自題文を1802年(純祖2)に書いたことがわかります。これによって李采肖像もまたこの頃に描かれたと考えられます。したがって画面には1802年、1803年、1807年という時期を異にして墨書きされた跋文が存在することになりますが、1803、1807年の讃文は肖像の制作以降に追加されたものとみられます。これらのうちから李采の自題文をご紹介します。

程子冠を頭にかぶり 朱子が仰った深衣をまとい
まっすぐ端正に座っている人は誰なのか?
濃い眉に白い髭、耳は高く尖り 眼差しは光っている。
彼こそがまことに季亮李采という人なのか?
過去の行跡を探ると 三つの村と五つの州の守令を歴任しており、
何を学んでいたのか問うと 四書と六経であるという。
ひとつの時代を騙し 虚偽の名声を盗んだのではないか?
ああ! 祖父李縡の故郷へ帰り、
祖父の遺した文を読め。
そうすれば生の喜びを知ることができ
程子と朱子の門徒になっても恥ずかしくないだろう。

李采は深衣と東坡冠を身に着け、正面をじっと凝視したまま両手を丁寧に合わせた姿勢で座っています。そして上記のように自身の生を整理する文を画面上部に書き、さらにその後親交を結んだ友人たちの評がともにあるようにしました。

これにより李采の姿を表現した肖像と彼の人生を証言する書が共存することで、最終的には絵画と文章が互いに交わり李采の総体的な人生が込められることになりました。60歳を前にして自身の内面を省察し、自らのアイデンティティと信念を問い直してこれからの生を方向づける、李采の人生が余すところなく込められた肖像であるといえます。

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