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寒松寺跡石造菩薩坐像
Date2019-02-22 Hit511

 寒松寺跡石造菩薩坐像 : 姜 三 慧

涼やかな松風吹く寒松寺に現身した菩薩像

白い大理石で作られた江陵寒松寺跡菩薩像(国宝第124号)は、江陵南項津洞寒松寺跡から1912年日本に搬出され、1965年に調印された韓日協定により返還され、現在国立春川博物館常設展示室に展示されています。

寒松寺跡石造菩薩坐像、江陵出土、高麗10世紀、白大理石、高さ92.4㎝、国宝第124号、国立春川博物館展示

寒松寺跡石造菩薩坐像、江陵出土、高麗10世紀、白大理石、高さ92.4㎝、国宝第124号、国立春川博物館展示
寒松寺―新羅花郎の跡が残る名勝地

寒松寺は江陵市江東面南項津洞にあった寺です。現在ここには空軍飛行場があります。海辺の松林に囲まれた寒松寺跡は、かつてより鏡浦台、寒松亭と併せて昔の人々の金剛山遊覧と連なる関東地方探勝旅行に欠かさず含まれていた場所で、ここを訪ねた詩人文客の詩文によく登場します。

この地域が昔の人々に探勝の対象となったのは、優れた風光のためでもありますが、何より神仙として崇められた永郎、述郎、南郎、安詳郎とその集まり3千名が来た(訪れた)場所として早くから神聖視されたためです。これら4人の神仙は、新羅孝昭王(在位:692~702)の時の花郎達でした。当時、花郎のなかでその集まりが最も栄え、関東八景のひとつである叢石亭と三日浦、寒松亭にはこれらと関連する碑石が立てられたという記録で伝わっています。関東八景は花郎の修練場であると同時に、巡礼の道となった慶州から安辺までの東海岸名勝地が次第に人々に知られながら、関東の八景として定着したものと推定されます。『三国遺事』に伝わるように最初の花郎である薛原郎記念碑が 溟州(今の江陵)に立てられたことは、鏡浦台と寒松亭に代表されるこの一帯が花郎の巡礼の道のなかで最も重要な場所であったことを語っています。鏡浦台と寒松亭をはじめとして、付近の寒松寺は、高麗時代に入って彼ら花郎と関連する遺跡地を遊覧しようとする高官顕職、そして詩人文客たちで賑わいました。高麗時代後期から朝鮮時代初期の文人達がここを探勝し、残した詩と文章が少なくないのもこのためです。

江陵南項津洞寒松寺跡

江陵南項津洞寒松寺跡
「土のなかから現れた文殊と普賢」

古い記録において寒松寺は「文殊堂」、「文殊台」、「文殊寺」と呼ばれました。高麗の学者、李穀(1298~1351)の文集である『稼亭文集』巻5の「東遊記」には、寒松寺についてこのように伝えています。

李穀、『稼亭文集』巻5、「東遊記」、朝鮮1662年刊行、30.0×19.5㎝、 国立中央図書館

李穀、『稼亭文集』巻5、「東遊記」、朝鮮1662年刊行、30.0×19.5㎝、 国立中央図書館

寒松寺跡石造菩薩坐像、江陵南項津洞出土、高麗10世紀、白大理石、高さ56㎝、宝物第81号、江陵鳥竹軒博物館

寒松寺跡石造菩薩坐像、江陵南項津洞出土、高麗10世紀、白大理石、高さ56㎝、宝物第81号、江陵鳥竹軒博物館

“雨のために一日を(鏡浦台で)過ごし、江城に出て文殊堂を観覧したが、人々の話によると文殊菩薩と普賢菩薩の両石像がここの土のなかから上に現れたという。その東側に四仙の碑石があったが、胡宗旦により水のなかに沈み、ただ亀趺だけ残っていた”(以雨留一日/ 出江城觀文殊堂/ 人言文殊,普賢二石像從地湧出者也/ 東有四仙碑/ 爲胡宗旦所沉/ 唯龜跌在耳)

江陵の鳥竹軒博物館にはもう1躯寒松寺菩薩像がありますが、この2躯の寒松寺菩薩像は、上の記録において「土の中なか現れた」と伝えられる文殊、普賢菩薩像と推定されます。鳥竹軒博物館所蔵菩薩像は残念なことに頭と片腕がありませんが、跏趺坐を結んで足を外にして楽に座った姿が国立春川博物館所蔵菩薩像と互いに対称を成しており、左右の脇侍菩薩であることを推定できます。 両脇侍菩薩像と共にあった本尊仏は何だったのでしょうか。

現在、白い砂場に覆われた寒松寺跡は、幸いにも両菩薩像を支えた台座が残っています。ひどく損傷した姿ではありますが、獅子と像の姿をした部分は判別できます。『法華経』と『華厳経』、『陀羅尼経』など仏教経典によると、獅子は知恵の象徴である文殊菩薩が座る台座で、象は慈悲を実践する普賢菩薩が座る台座です。韓国で獅子と象の形の台座は、慶尚北道慶州仏国寺にも残っており、9世紀に制作されたものと見られる星州法水寺、石造毘盧遮那三尊仏にも獅子と象の台座があります。文殊と普賢菩薩像が脇侍できる仏像は、釈迦と毘盧遮那(Vairocāna)仏像ですが、当時華厳宗と禅宗で毘盧遮那仏を捧げ、密教の影響で9世紀中盤から魔訶毘盧遮那仏像を大量に造成しはじめた点などを勘案し、寒松寺菩薩像の本尊は毘盧遮那仏像であったと推定されます。

寒松寺跡に残る獅子と象 寒松寺跡に残る獅子と象

江原道に移った五台山文殊信仰

寒松寺菩薩像に見られる高い円筒形の宝冠は、高麗時代の初めに江陵付近の菩薩像に見られる重要な特徴のひとつです。このような円筒高冠形の菩薩像は、インドの密教図像が受容されながら中国に登場しますが、密教が盛んであった首都長安と密教美術が移植された山西省五台山地域を中心に広がったものと推定されます。高冠形菩薩像は、以降五代(907~960)と宋(960~1277)彫刻に続き、遼(907~1277)彫刻でさらに流行します。韓国でも10世紀頃、江原道五台山を中心とした月精寺、神福寺、寒松寺(文殊寺)菩薩像において円筒形宝冠が登場することは興味深いです。

月精寺 石造菩薩坐像、高麗、高さ180㎝、宝物第139号、江原道平昌郡珍富面月精寺 月精寺 石造菩薩坐像、高麗、高さ180㎝、宝物第139号、江原道平昌郡珍富面月精寺

神福寺跡石造菩薩坐像、高麗、高さ121㎝、宝物第84号、江原道江陵市内谷洞 神福寺跡石造菩薩坐像、高麗、高さ121㎝、宝物第84号、江原道江陵市内谷洞

『華厳経』によると五台山は文殊菩薩が常駐する聖地です。韓国では7世紀に慈蔵法師によって五台山文殊信仰が中国から流入しますが、『三国遺事』で伝わる文殊信仰は、主に文殊菩薩が現身して霊験を与える姿で現れます。『三国遺事』の「台山五万真身」条では神文王(在位:681~692)の息子、宝川と孝明太子が五台山で文殊菩薩に毎日茶を煎じて供養し、修道生活をし、孝明太子が王に推戴され、孝昭王となる話が伝えられています。これに先立ち、新羅の使臣達が孝昭王の即位に大きな影響を与えた五台山地域の支持勢力であると同時に、この地域に文殊信仰を根付かせた張本人でなかったかとも考えられます。

統一新羅彫刻伝統と地域様式を反映した優雅で貴族的な菩薩像

石窟庵龕室像、統一新羅751年、高さ106㎝、国宝第24号、慶尚北道慶州市 石窟庵龕室像、統一新羅751年、高さ106㎝、国宝第24号、慶尚北道
慶州市

寒松寺菩薩像の柔らかく洗練された彫刻手法は、統一新羅の石窟庵龕室像と比較されます。統一新羅の751年頃に作られた石窟庵龕室の文殊菩薩像は、向かい側に座った維摩居士と不二の法門を論じる姿です。 石窟庵龕室像に見られるように知恵と慈悲を実践する姿が造形的に具現された口元の微笑と、寛大な顔貌、しなやかに落ちる丸い肩と豊満な腕、ゆったりとした姿勢などの統一新羅彫刻の伝統は、時代を超えて寒松寺菩薩像によく表れています。


江陵と五台山地域は昔から溟州と呼ばれましたが、太宗武烈王の6代孫である金周元が王位に上がれず、母の故郷であるここに隠居し、江陵金氏の始祖となりました。元聖王(在位:785~798)は、金周元に溟州、襄陽、三陟、蔚珍などの地域を下賜して、溟州郡王に封じ、治めるようしたと言います。金周元の直系後孫は中央政界にも進出しましたが、このような溟州地方と王都であった慶州との関係性は、統一新羅彫刻様式が寒松寺菩薩像で続いて、下りてきた背景となったものと推測します。

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