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新羅最高の名品、耳飾 - 慶州普門洞合葬墳出土金製耳飾
Date2019-02-22 Hit572

 新羅最高の名品、耳飾 - 慶州普門洞合葬墳出土金製耳飾 : 尹 相 悳

 慶州普門洞合葬墳出土太環金製耳飾、新羅6世紀中葉、重さ(左)57.1g、(右)58.7g、国宝第90号

慶州普門洞合葬墳出土太環金製耳飾、新羅6世紀中葉、重さ(左)57.1g、(右)58.7g、国宝第90号
三国時代の耳飾の中で最高の名品とされる宝物

この耳飾は日帝強占期の1915年に新羅の古都である慶尚北道慶州の普門洞合葬墳(大きな墳丘の中に2基の墓があることからこのように名づけられました)から発掘されたものです。非常に小さな金粒と金糸を使った精巧な装飾と華やかな瓔珞など三国時代の耳飾の中でも最高の名品とされる宝物であり、1962年には国宝第90号に指定されました。

この耳飾については製作技法や文様について研究が続けられてきましたが、耳飾がどのように出土し、その墓の被葬者が誰なのかという肝心な点が知られていません。夫婦だったであろうという発掘当時の推測が長い間定説となっていました。このような疑問が十分に解明できなかった理由は発掘報告書が刊行されていなかったためでした。発掘後96年が経った2011年に国立慶州博物館ではこの古墳の発掘報告書を刊行しました。報告書の刊行によって今まで間違って認識されていた点、知られていなかった点が新たに判明しました。ここではその成果を基に古墳の発掘過程、構造、そして耳飾の持ち主は誰なのかなどについて説明します。

どのように発掘されたのか

大日本帝国は大韓帝国の強制併合に先立って韓国の歴史・文化などに対する調査を開始しました。新羅の千年首都である慶州もその対象でした。主に寺址に残っている石塔と建築物の現況を把握する一方で遺跡の調査も並行して行いました。1915年、普門洞合葬墳の調査前に新羅古墳に対して幾度かの発掘を実施しましたが、その大部分は正式な発掘調査とは言い難いものでした。この時の積石木槨墳の発掘では遺体を埋葬した場所を発見できず、積石の上部で中断する場合がほとんどでした。

日本による慶州地域の古蹟調査が本格化したのは普門洞合葬墳を発掘した後からでした。普門洞合葬墳は関野貞調査団によって発掘されました。1915年7月6日に発掘を開始した翌日には橫穴式石室墳の内部調査を終え、積石木槨墳の調査は12日に終了しました。調査団は2基の墓を調査し内部の構造と遺物が置かれた状態に対する簡単な図面を残しており、簡略なものではありますが副葬品の出土位置が記録された最初の発掘であると言えます。この耳飾は横穴式石室墳から出土しました。

 (左)横穴式石室墳の図面、(右)積石木槨墳の図面(図面は1915年作成)

(左)横穴式石室墳の図面、(右)積石木槨墳の図面(図面は1915年作成)

普門洞合葬墳は1つの墳丘の中に2基の埋葬施設(積石木槨と石室)を持つ古墳で積石木槨墳が先に作られました。後日、合葬のため元からあった墳丘の一方を壊して積石木槨墳の積石のそばに接して石室を作り、再び土で覆っています。研究の結果、積石木槨墳が作られた年代は今から約1500年前の520〜540年頃と推定され、横穴式石室墳はこれより少し遅れて540〜560年頃のものであることが明らかになりました。新羅古墳の埋葬主体部は積石木槨から横穴式石室に変化しますが、普門洞合葬墳はこのような墓の変化を示す重要な資料でもあります。

耳飾の持ち主は男か、女か

 積石木槨墳出土耳飾、新羅 6世紀前半、(左)長さ8.0cm、重さ33.0g、(右)長さ7.87cm、重さ33.8g

積石木槨墳出土耳飾、新羅 6世紀前半、(左)長さ8.0cm、重さ33.0g、(右)長さ7.87cm、重さ33.8g

わずか百年前には男性はスカートを穿かず、女性がズボンを穿くことはありませんでした。耳飾や首飾も女性の専有物でした。時代によっては男性と女性をそれぞれ象徴するものは変化していきましたが、特定の形態をなす服装や装身具は他人に自らの性別を伝える役割を果たしてきました。

したがって、墓に葬られた人の性別は被葬者がどのような服を着て装身具を身に着けていたのかを調べてみることで知ることができます。しかし長い歳月によって衣服はすべて朽ち果ててしまったため、装飾品を対象に研究がなされてきました。これまでの考古学者たちによる研究の結果、被葬者の性別を考えるうえで最も重要な基準は耳飾の種類であることが分かりました。耳飾は上部の主環の形によって細環耳飾と太環耳飾に分けられます。細環耳飾をつけて墓に葬られた人はその大部分が大刀を腰につけているのに対し、太環耳飾をつけた人は大刀を腰に佩用することはほとんどありません。これを裏付ける資料は皇南大塚です。皇南大塚は2基の墓がくっついていますが、それぞれ新羅の王と王妃の墓であるとされています。南側の墓からは男性の骨が出土しており、葬られた人が男性であることが明確に分かり、ここからは細環耳飾が出土しました。北側の墓からは腰佩に「夫人帯」という銘文が刻まれていることから女性の墓であることが分かりますが、ここでは太環耳飾が出土しています。つまり、新羅の場合、細環耳飾をつけ大刀を腰に佩用して葬られた人は男性、太環耳飾をつけて葬られた人は女性であることが分かります。この華麗な耳飾をつけて葬られた人も女性だったのです。

ところで、普門洞合葬墳の積石木槨墳からは大刀が発掘されました。とすれば、積石木槨墳の被葬者は男性でしょうか?積石木槨墳からも太環耳飾がセットで出土しています。大刀は男性をあらわす副葬品で、太環耳飾は女性をあらわす装飾品ですが、これは一体どういうことでしょうか?ここで注意すべきことは大刀で男女を区別するためには、単に大刀が墓から出土したかどうかだけではなく、腰に付けたまま葬られたのかを調べなければならないという点です。普門洞合葬墳の積石木槨墳では大刀が腰ではなく、頭の上側の副葬櫃から出土しました。先に紹介した皇南大塚北墓(王妃の墓)からも大刀が複数点出土していますが、すべて副葬櫃から出土しました。したがって、積石木槨墳に埋葬された人も女性であることが分かり、この合葬墳に葬られたのは夫婦ではありませんでした。

どのような人たちが葬られたのでしょうか?

どのような装身具を身につけるかは性別によって異なりますが、社会的地位によっても違いがあります。最も基本的な装飾具は耳飾ですが、ここに腕輪、指輪、首飾、刀剣、冠などが加わりながら徐々に地位が高くなります。2基の墓に葬られた人は金製耳飾だけでなく、銀と青銅で作られた腕輪、そして銀製指輪をはめていました。当時は耳飾をつけられることだけでもかなりの地位にいた人であることを示していました。金製装身具を身につけて葬られた人を対象とした最近の研究では、それらは大きく3つの階層に分けられると言います。この研究によると、普門洞合葬墳の被葬者は新羅で最も上流階級に属する人であったと考えられます。

では、一つの墳丘に並んで葬られた二人の女性はどのような関係だったのでしょうか?一つの墳丘に並んで墓を作ったことから明らかに近しい関係であったと考えられます。姉妹なのかもしれませんし、母子であったかもしれません。母子であれば嫁に行く前に短い人生を終えた娘を気にかけていた母親が娘と一緒に葬られることを願ったのではないでしょうか?

国宝第90号、金製耳飾

最後に耳飾を見てみましょう。1500年が過ぎても光り輝く黄金色、華麗な文様、自ずから感嘆の声があがります。直径0.5mmにも満たない小さな金粒と薄い金糸を利用してカメなどの形に区画し、さらにその中に花の文様を表現した精巧さに驚かされます。しかし、新羅の洗練された美的感覚と最高の金属工芸技術を見せるこの耳飾にも人間のミスが残っています。拡大鏡を当てて注意深く見てみると、加熱が十分になされず丸い玉がならなかった金粒と、本来の位置とは異なる場所に付いているもう一つの金粒を見つけることができます。自分のミスを見つけて「数ヶ月苦労して作った耳飾をこの小さなミスのために溶かさなければならないのか!」とこっそり悩んでいる職人の姿が思い浮かびます。

 玉状ではない金の粒 玉状ではない金の粒

 本来の場所ではない金粒 本来の場所ではない金粒

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