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東国大地図、鄭尚驥
Date2019-02-22 Hit520

東国大地図、鄭尚驥 : 蔣 尙 勳

地図は、自分自身を実際に描いた自画像と同じようなものでもあります。地図には、それを作った人々が定着して暮らしてきた土地の山脈や水脈、彼らが開墾して作った郡や村が、彼らなりの視線で表現されています。そして、その地図を通じて、彼らは改めて自分たちが暮らす世界を理解します。この先人が作った地図のおかげで、こんにちの私たちは、その時代の人々の暮らしや物の考え方に接することができる貴重な機会を得ています。古地図は、過去と現在を繋ぐ重要な歴史資料なのです。

「東国大地図」(一部),鄭尚驥,朝鮮 1755~1767年,272.0×147.0㎝,宝物第1538号

「東国大地図」(一部),鄭尚驥,朝鮮 1755~1767年,272.0×147.0㎝,宝物第1538号
「大東輿地図」誕生の基礎となった地図

宝物第1538号に指定されている「東国大地図」は、18世紀中葉に鄭尚驥(1678~1752)が制作した韓国の全土図の写本で、彼が制作した「東国大地図」に最も近い地図です。鄭尚驥が制作した原本は現在伝わっていませんが、国立中央博物館が所蔵するこの写本は、彼の地図を最もよく反映したものと評されています。「東国」という呼称は、韓国を指す別称の代表的なもので、「大地図」という名称からも分かるように、大きさが横147㎝、縦272㎝に達する大きな地図です。

「東国大地図」は、それ以前の地図を一新した作品であると同時に、以降の韓国における伝統的な地図の決定版である「大東輿地図」の誕生の基礎となった地図です。「大東輿地図」のような優れた地図が登場するまでは、何代にもわたる地図制作の伝統が欠かせませんでした。「東国大地図」は、伝統的地図の発展に非常に大きな影響を与えました。この点では、ある意味で「大東輿地図」を凌いでいるといえます。実際に18世紀後半に20里(約9㎞)をマス目とする大縮尺の村落図を制作した申景濬(1712~1781)は、最も基本となる資料として鄭尚驥の地図を活用しました。そして、申景濬の地図は、その後「大東輿地図」などの大縮尺の全土図を制作する核心的な資料になりました。

鄭尚驥は、19世紀初頭から中葉にかけて活躍した地理学者の金正浩と比べれば、はるかに知名度は低いですが、朝鮮後期の地図制作において最も重要な人物の一人です。彼は俗世間から離れて暮らしながら実学の研究に没頭し、その成果としての著述は、政治・経済・国防・軍事戦略・医薬・農学など、多岐にわたっています。彼の息子の鄭恒齢(1700~未詳)をはじめ、曽孫に至るまで地図制作に携わりましたが、官途に就いた鄭恒齢を除けば、彼らの行跡について残された記録は多くありません。鄭尚驥が制作した地図が注目されるのは、彼が1752年にこの世を去った後のことでした。1757年、当時の王であった英祖(在位1724~1776)は、下級官吏だった鄭恒齢の家に良い地図があるという話を聞きました。実際に朝廷に取り寄せて地図を調べたところ、山脈や水脈、道路の表現が非常に詳細だと評判になりました。この「東国大地図」と称する地図を英祖は王室図書を管理する弘文館に送って模写させ、数日後には「東国地図」という地図帳も同様の過程から入手して複製し、弘文館と国防を管轄する備辺司にそれぞれ保管しました。そのなかで英祖は、70年の生涯でこのような地図は聞いたことがないと感嘆したといいます。朝廷においても、地図測量の間違いをほぼなくしたと、多少誇張を込めた評価をしました。

「東国」という呼称は、韓国を指す別称のなかでも代表的なもので、「大地図」という名称からも分かるように、大きさが横147㎝、縦272㎝に達する大きな地図です。

「東国」という呼称は、韓国を指す別称のなかでも代表的なもので、「大地図」という名称からも分かるように、大きさが横147㎝、縦272㎝に達する大きな地図です。
北部地方の地形を画期的に改善する

朝鮮前期の地図は現存するものが多くありませんが、朝鮮王朝の建国とともに地図制作と地理志編纂の作業が活発に行われました。朝鮮前期の15世紀に鄭陟(1390~1475)が作成した「東国地図」という全土図は、当時としては非常に詳細な地図でした。全国の山脈と水脈が詳細に表現されており、この上に朝鮮時代の各行政単位、すなわち330余りの府・牧・郡・県が余す所なく示されています。これに加えて、兵営や水営といった軍事施設の位置も詳細に収められています。

「東国大地図」の影響力は非常に大きく、16世紀まで流行した後、壬辰倭乱(文禄の役)後の17世紀に至るまで大きな影響を与え続けました。鄭陟がみずから制作した地図は現存しませんが、16世紀(1557~1558頃)に作られた国宝第248号「朝鮮方域之図」にその様子がよく伝えられています。しかし、鄭陟のタイプの地図には、一定の限界がありました。代表的なものが、半島北部地方の表現です。鴨緑江と豆満江の水脈が正確に表現されておらず、一直線に近い平らなかたちになっています。「東国大地図」が鄭陟タイプの地図と異なる最大の差であり、最も重大な改善点は、このような北部地方の表現を劇的に改善したことにあります。鴨緑江と豆満江の水脈を比較的実際の姿に近いかたちで表現するようになったのです。これにより、平安道と咸鏡道地域の地形が正確に示されるようになり、はじめて本来の国土の姿を備えるに至りました。

このような発展の裏には、北方地域の防御に対する苦悩が深く関わっていました。16世紀始めに清が登場すると、明を倒して中国大陸を掌握しました。清が起こした2度にわたる胡乱により苦難を経験した朝鮮は、北伐(対清征討)の機会をねらっていました。実際に実行に移されることはありませんでしたが、清との戦争を真剣に考え、北方地域をより注意深く調べるようになったのです。その一方で、当時の朝鮮人は、女真族という蛮族の建てた清王朝は長く続かないものと考えました。いつか彼らが滅亡して本拠地である満州へと追われる際に、朝鮮の北方地域を通過するのではないかという疑懼の念が相当大きかったのです。このような認識は、18世紀中葉まで続き、北方地域の軍備強化に影響を与えました。このような事情もまた、北方地域の地図を改善しなければならないという認識を高めたものと思われます。

縮尺を活用して詳細で正確な地図を追求する

 鄭尚驥は、一部の地域にだけ縮尺を適用していたそれまでの地図の限界を克服し、一定の比率の縮尺を国土のすべてに一貫して適用しました。

鄭尚驥は、一部の地域にだけ縮尺を適用していたそれまでの地図の限界を克服し、一定の比率の縮尺を国土のすべてに一貫して適用しました。

「東国大地図」が韓国の地図発達史において果たした役割として最も顕著な点は、まさに縮尺を本格的に活用して制作した全土図であることです。もちろん、それまでの地図でも縮尺が適用されていました。しかし、全域を一定の比率の縮尺で表現するには限界がありました。鄭尚驥は、このような限界を克服し、一定の比率の縮尺を国土の全域に一貫して適用して地図を作り出したのです。なかでも「東国大地図」のような大型の地図を制作するとなると、縮尺の重要性はより一層高まりました。そして、このような縮尺が地図上に棒状に直接表現されるに至ります。国立中央博物館が所蔵する「東国大地図」には、縮尺が描かれていた部分が欠失していますが、当初は縮尺があったことは明らかです。

なぜならば、国立中央博物館が所蔵する「東国大地図」の草本、つまり下絵に当たる地図には、咸鏡道の東の海の位置に棒状の縮尺がはっきりと描かれており、「東国大地図」にも縮尺があったと推定されるからです。さらに、鄭尚驥が制作した地図帳「東国地図」に収められている様々な地図には、いずれにも百里尺という縮尺が示されています。この地図帳は、「東国大地図」よりもはるかに大衆的な影響力の大きいものでした。全国八道の道別地図と小縮尺の朝鮮全図を網羅収録した地図で、18世紀中葉からほぼ19世紀末に至るまで、人気を博しました。つまり、縮尺を見ながら地図上の地点間の距離を正確に把握できるようにしたのです。

「東国大地図」において際立つ点のうちの1つは、この地図が伝統的な山脈の体系を忠実に反映している点です。伝統時代において、山脈と水脈は、単純な自然の地形よりも意味がありました。

山と川は、大地内部のエネルギーを分配する一種の導管、つまり簡単にいえばパイプと見なされました。大地の力は、自然や環境の条件と陰陽の理論に従い、有利になりうる反面,脅威となることもありました。そして、有利になる影響がはっきりと現れる場所が「明堂」でした。白頭山は、このような山脈の体系の中心にありました。「東国大地図」や朝鮮後期に制作された地図の大部分には、白頭山が強調されています。白頭山から始まり、金剛山を抜けて太白山と智異山に繋がる「白頭大幹」の姿がひと目で分かります。白頭大幹から枝分かれになる重要な山脈「正脈」の姿も特に強調されています。群小の山脈とは違い、峰も大きく表現し、濃い緑色を使って目立つように描写しています。特に軍事的に重要な6つの正脈(清北・海西・洛南など)が強調して描かれています。このような絵画技法は、韓国の伝統地図の重要な特徴の一つでもあります。

記号を活用して読みやすい地図を模索する

「東国大地図」は、様々な記号を使うことで、2200余りにおよぶ地名を簡単で迅速に分かるように工夫されています。

「東国大地図」は、様々な記号を使うことで、2200余りにおよぶ地名を簡単で迅速に分かるように工夫されています。

「東国大地図」には、全部で2200余りの地名が載っています。このうち、自然地名が1200余り、人文地名が1000余りです。自然地名では、山地の名称が圧倒的に多いです。特に峠の名称が詳細に載っており、交通路の重要性を示しています。人文要素の表現でも、道路の表現が詳細で、赤色が付けられた実線の太さによって道路の重要度が示されています。人文地名では、やはり郡名が330余りと最も多く、その次がこんにちの軍司令部に当たる兵営や水営などの軍営、鎮や堡といった軍事基地のほか、山城など、軍事関連の地名で250余りに及びます。

「東国大地図」には様々な記号が使われており、2000余りに達する地名を簡単で迅速に分かるようにしています。現代の地図でも記号を多用しているように、鄭尚驥は、それまでの地図とは比べものにならないほど多様な記号を使用しました。以前にも記号が活用されてはいましたが、彼の地図になって本格的に用いられました。例えば、各種監営、兵営、水営、察訪駅、鎮堡、山城、烽台、峠道などを特定の記号で表現し、一目でそこが一定の性格を持つ場所であることを識別できます。このような記号にも絵画技法が反映されており、峠や烽台、山城などの場合は記号自体が絵のような模様になっています。また、城郭が設置された郡には、郡を表す囲い線に城郭の模様を描いています。一方、地名の数と比率は、「東国大地図」がどのような目的で制作されたのかを知ることができる良い手掛かりになります。つまり、行政と国防という2つのはっきりとした目的を知ることができるのです。

伝統時代において地図の最も基本的な用途は、国を統治して外敵から防御するためのものでした。このような目的において、また重要なものが、道路などの交通情報だったのです。韓国の地図学は、韓国の歴史と文化という特定の環境下で登場し、発展してきました。韓国の古地図が特定の形態や特性を持っているのは、制作当時の技術や観念、社会、経済的与件と連動していました。中国や日本といった東アジア諸国とは異なる地図を制作して活用したのは、地図という普遍的な媒体に韓国の特殊性が加味され、他国とは異なる道を歩むことになったためでしょう。結局、韓国の古地図の意味と価値を明らかにすることは、単に地図について検討するのではなく、韓国の歴史と文化の総体を考察する過程といえます。

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