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北漢山新羅真興王巡狩碑
Date2019-02-22 Hit492

北漢山新羅真興王巡狩碑 : 金 在 弘

北漢山新羅真興王巡狩碑は新羅第24代国王である真興王(在位540〜576)が北漢山に建てた石碑であり、国宝第3号に指定されています。この石碑の性格は冒頭に「巡狩」という表現があることから、真興王が漢江流域を巡狩したことを記念して建てた石碑であることが分かります。元々、京畿道高陽郡恩平面旧基里(現ソウル特別市鍾路区旧基洞)碑峰にありましたが、現在は国立中央博物館の古代館新羅室に展示されています。

 碑峰にあった北漢山新羅真興王巡狩碑

碑峰にあった北漢山新羅真興王巡狩碑
新羅第24代国王である真興王が漢江流域を巡狩したことを記念して建てた石碑です。
朝鮮時代後期に碑文の内容が発見され、真興王巡狩碑の名称を得る

石碑は花崗岩で作られ、碑身の高さは約155.1cm、幅は約71.5cm、厚さは約16.6cmです。左側面の上端から下に約25.1cm地点から右側面の上端から下に約45.4cm地点にかけて切断されていますが接合しました。石碑の上部には碑首を載せられるように幅約69cm、高さ約6.7cmほど突出させています。この石碑の碑首は発見されていませんが、碑座は自然石を利用しており、今も碑峰にそのまま残っています。このことからこの石碑は碑首、碑身、碑座から構成されていたことが分かります。碑文は12行からなっており各行21字もしくは22字ですが、その多くは判読が困難です。

 北漢山新羅真興王巡狩碑、新羅555年頃、高さ155.1、幅71.5、厚さ16.6 cm、国宝第3号

北漢山新羅真興王巡狩碑、新羅555年頃、高さ155.1、幅71.5、厚さ16.6 cm、国宝第3号

この石碑にはコケが付着していたため、正確な内容が分からないまま無学大師王枉尋碑または没字碑などと呼ばれてきました。そして、朝鮮時代後期に徐有榘が10字余りを判読して真興王巡狩碑と名付け、朝鮮純祖16年(1816年)に金正喜が友人の金敬淵と北漢山の僧伽寺に行った際、これを発見して「眞」の字を確認し新羅真興王巡狩碑と確定しました。彼は翌年、趙寅永とともに新たに68字を確認しました。金正喜が調査した経緯はこの石碑の側面を見ると知ることができます。石碑の側面には右から「此新羅眞興大王巡狩之碑丙子七月金正喜金敬淵來讀(これは新羅真興大王巡狩碑である。丙子年(1816年)7月に金正喜、金敬淵が来て碑文を読んだ)」と刻まれています。その横には「己未八月二十日李濟鉉龍仁人(己未年(1859年)8月20日龍仁の人李済鉉)」とあり、さらに隷書で「丁丑六月八日 金正喜 趙寅永同來審定殘字六十八字(丁丑年(1817年)6月8日金正喜、趙寅永が一緒に残っている文字68字を審定した)」と刻まれています。この石碑は金正喜が拓本して中国の劉燕庭に伝えられ、これが彼の「海東金石苑」に載せられ、広く世に知られることとなりました。その後、日帝強占期に今西龍たちが再調査を行い『大正五年度古蹟調査報告』に掲載されました。

碑文には正確な年代を示す干支や年号がないため、これに関するいくつかの学説があります。おおむね真興王16年(555年)、または真興王29年(568年)頃とする見解に分けられますが確定されていません。前者は真興王が16年(555年)に北漢山を巡狩したという『三国史記』の記録をもとに、この時に石碑を建てたというものであり、後者は北漢山碑の内容が568年に建てられた磨雲嶺眞、黃草嶺碑と似ている点と碑文中の「南川軍主」を根拠としています。『三国史記』に見られる「真興王29年(568年)、10月に北漢山主を拝し南川軍主を設置した」という内容と関連づけて、この石碑は568年10月以降に建てられたと考えられています。

真興王代の地方および軍事制度を把握するうえで重要な資料

この石碑の内容は大きく3つに分けることができ、1)題目、2)巡狩背景と経過、3)王に随行した人などを記録しています。判読の難しい文字が多いため内容の詳細を知ることは困難ですが、確認できる内容の中には当時の状況を物語る重要なものがあります。

この石碑の冒頭に「眞興太王」が見られますが、先々代および先代の王である智証王と法興王は王の名称として麻立干、寐錦王、太王などと称されましたが、真興王は名実共に自らを太王と呼んでいます。これは高句麗で用いられていた太王をまねて使用した可能性が高いですが、新羅に起きた社会的変化を知ることができる王号です。次に、私たちになじみのある金庾信の祖父である金武力が碑文に見られます。この碑には「沙喙部出身の另力智が迊干」とありますが、迊干は新羅17官等の中で3等級に該当する高位職です。金武力は新羅が漢江流域を掌握する際に重要な役割を果たした将軍で、550年頃には5等級で阿干支でしたが、昌寧碑の内容から見て561年以降には迊干に昇進していたことが分かります。また、ここで注目されるのが石窟に居住する「道人」です。道人は仏教の道を修めて悟りを開いた僧侶として、新たに編入された地域の人々を教化する人と見られます。真興王は新しい領域を確保することにのみ力を注いだのではなく、征服地の人々を教化しようとしました。この石碑に見られる「南川軍主」は真興王代の地方および軍事制度を把握するうえで重要な資料となっています。

 北漢山新羅真興王巡狩碑拓本(左)と金正喜が巡狩碑の側面に刻んだ文字(右)

北漢山新羅真興王巡狩碑拓本(左)と金正喜が巡狩碑の側面に刻んだ文字(右)

このように真興王は辺境地域を巡狩して巡狩碑を複数建てました。これは真興王が自ら成し遂げた征服活動の成果である領域範囲を誇示して征服民を統治する理念を明らかにするものでした。したがって、真興王巡狩碑は6世紀中葉における新羅真興王代の新羅の発展とその理想を知ることができる重要な資料であると言えます。

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